吉川英治『三国志(新聞連載版)』(614)臨戦第一課(六)
昭和16年(1941)9月16日(火)付掲載(9月15日(月)配達)
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戦は暁になつて熄(や)んだ。
山は焼け、渓水(たにみず)は死屍(シヽ)で埋もれ、悽愴な餘燼(ヨジン)のなかに、関羽、張飛は軍を収めて、意気揚々、ゆうべの戦果を見まはつてゐた。
「敵の死骸は、三万をこえてゐる。この分では無事に逃げた兵は、半分もないだらう」
「まづ、全滅に近い」
「幸先(さいさき)よしだ。兵糧その他、戦利品も莫大な数にのぼらう。かゝる大捷(タイセフ)を博したのも、日頃の鍛錬があればこそ——やはり平常が大事だな」
「それもあるが……」
と、関羽は口を濁(にごら)しながら、駒を並べてゐる張飛の顔を見て云つた。
「この作戦は、一に孔明の指揮に出たものであるから、彼の功は否みがたい」
「むゝ。……計(はかりごと)は、図に中(あた)つた。彼奴(きやつ)も、ちよつぴり、味をやりをる」
張飛はなほ幾らかの負け惜(をし)みを残してゐたが、内心では、孔明の智謀を認めないわけにはゆかなかつた。
やがて、戦場をうしろに、新野のはうへ引(ひき)あげて行くと、彼方から一輌の車を推し、簇擁(ゾクヨウ)として、騎馬軍旗など、五百餘の兵が近づいて来る。
「誰(たれ)か?」
と見れば、車のうへには悠然として軍師孔明。——前駆の二大将は糜竺、糜芳のふたりだつた。
「オヽ、これは」
「軍師か」
威光といふものは争へない。関羽と張飛はそれを見ると、理窟なしに馬を降りてしまつた。そして車の前に拝伏し、夜来の大捷を孔明に報告した。
「わが君の御徳と、各々の忠誠なる武勇に依るところ。同慶の至りである。」
孔明は車上から鷹揚にさう云つて、大将たちを犒(ねぎら)つた。自分より遙(はるか)に年上な猛将たちを眼の下に見て、さう云へるだけでも、年まだ二十八歳の弱冠とは見えなかつた。
やがて、又こゝへ、趙雲、関平、劉封などの諸将も各々の兵をまとめて集まつた。
関羽の養子関平は、敵の兵糧車七十餘輛を分捕つて、初陣の意気軒昂たるものがあつた。
更に、白馬に跨つた玄徳のすがたが、これへ見えると、諸軍声をあはせて、勝鬨(かちどき)をあげながら迎へた。
「御無事で」
「めでたく」
「しかも、大捷を占めての御帰城——」
と、人々は欣(よろこ)び勇んで、新野へ凱旋した。旗幡(キハン)翻々(ヘン/\)と道を埋め、土民はそれを迎へて拝舞雀躍した。
孫乾(ソンカン)は、留守してゐたので、城下の父老をひきゐて、郭門に出迎へてゐた。その老人たちは、口をそろへて、
「この土地が、敵の蹂躙(ジウリン)から免れたのは、ひとへにわが御領主が、賢人を厚くお用ひなされたからぢや」
と、玄徳の英明を称(たゝ)へ、また孔明を徳として仰いだ。
しかし孔明は誇らなかつた。
城中に入つて、数日の後、玄徳が彼に向つて、あらゆる歓びと称讃を呈しても、
「いやいや、まだ決して、安心はなりません」
と、眉をひらく風もなかつた。
「いま、夏侯惇の十万騎は、残り少(すくな)に討ちなされて、こゝしばらくは急もありますまいが、必定、この次には、曹操自身が攻め下つて来るでせう。味方の安危如何はその時かと思はれます」
「曹操がみづから攻めて来るやうだつたら、それは容易ならぬことになる。北方の袁紹ですら一敗地に滅び、冀北、遼東、遼西まで席巻したあの勢ひで南へ来たら?」
「かならず参ります。故に、備へておかなければなりますまい。それにはこの新野は領堺も狭く、しかも城の要害は薄弱で、恃(たの)むには足りません」
「でも、新野を退(の)いては」
「新野を退(の)いて拠るべき堅固は……」
と、孔明は云ひかけて、そつと四辺(あたり)を見まはした。
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