吉川英治『三国志(新聞連載版)』(612)臨戦第一課(四)
昭和16年(1941)9月13日(土)付掲載(9月12日(金)配達)
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表面、命令に従つて、それ/゛\前線へ向つては行つたが、内心、孔明の指揮をあやぶんでゐたのは関羽、張飛だけではなかつた。
関羽なども、張飛をなだめてはゐたが、
「とにかく、孔明の計(はかりごと)が中(あた)るか否か、試みに、こんどだけは、下知に従つてゐようではないか」
と、云つた程度であつた。
時、建安十三年の秋七月といふ。夏侯惇は十万の大軍を率ゐて、博望坡(河南省・新野の北方)まで迫つて来た。
土地の案内者を喚んで、所の名をたづねると、
「うしろは羅口川(ラコウセン)、左右は豫山、安林。前はすなはち博望坡です」
と、答へた。
兵糧輜重などを主とした後陣の守りには、于禁、李典の二将をおき、自身は副将の夏侯蘭(カコウラン)、護軍(ゴグン)の韓浩(カンコウ)の二人を具して、更にすゝんだ。
そしてまづ、軽騎の将数十をつれて、敵の陣容を一(イチ)眄(ベン)すべく、高地へ馳けのぼつて行つたが、
「ははあ。あれか。わはゝゝ」
と、夏侯惇は、馬上で大いに笑つた。
「何がそんなに可笑(をか)しいので」
と、諸将がたづねると、
「さきに徐庶が、丞相の御前で、孔明の才を称(たゝ)へ、まるで神通力でもあるやうな事を云つたが、今、彼の布陣を、この眼に見て、その愚劣を知つたからだ。——こんな貧弱な兵力と愚陣を配して、われに向はんとは、犬羊(ケンヤウ)をケシかけて虎豹(コヘウ)と闘はせようとするやうなもの——」
と、なお笑ひ止まず、自分が曹操の前で、玄徳と孔明を生捕つて見せると大言したことも、これを見れば、もう掌(たなごころ)に在るも同様だと云ひ足した。
すでに敵を呑んだ夏侯惇は、先手の兵にむかつて、一気に衝(つ)き崩せと号令をかけ、自身も一陣に馳け出した。
時に、趙雲もまた彼方から馬で飛ばして、夏侯惇の方へ向つて来た。夏侯惇は、大音をあげて云ふ。
「鼠将(ソシヤウ)玄徳の粟を喰つて、共に国を賊(ぬす)む醜類、いづこへ行くか。夏侯惇これにあり、首をおいてゆけ」
「何をつ」
趙雲は、まつしぐらに、鎗を舞はしてかゝつてくる。丁々十数戟、詐(いつは)つつて(ママ)、忽ち逃げ出すと、
「待てつ、怯夫つ」
と、夏侯惇は、勝ち誇つて、飽(あく)まで追ひかけて行つた。
護軍韓浩は、それを見て、夏侯惇に追ひつき、諫(いさ)めて云つた。
「深入りは危険です。趙雲の逃げ振りを見ると、取つて返して誘ひ、誘つてはまた逃げ出す様子、伏兵があるにちがひありません」
「何を、ばかな」
夏侯惇は一笑に付して、
「伏勢があれば伏勢を蹴ちらす迄(まで)だ、これしきの敵、たとへ十面埋伏の中を行くとも、何の恐るゝに足るものか。——たゞ追ひ詰め追ひ詰め討ちくづせ」
かくて、いつか彼は博望の坡(つゝみ)を踏んでゐた。
すると果(はた)して、鉄砲の轟(とゞろき)と共に、金鼓の声、矢風の音が鳴りはためいた。旗を見れば玄徳の一陣である。夏侯惇は大いに笑つて、
「これがすなはち、敵の伏勢といふものだらう。小ざかしき虫〔けら〕共、いで一破りに」
と、云ひ放つて、その奮迅に拍車をかけた。
気負ひぬいた彼の麾下(キカ)は、その夜のうちにも新野へ迫つて、一挙に敵の本拠を抜いてしまふばかりな勢ひだつた。
玄徳は一軍を率ゐて、力闘につとめたが、固(もと)より孔明から授けられた計のあること、防ぎかねた態(テイ)をして、忽ち趙雲とひとつになつて潰走(クワイソウ)し出した。
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次回 → 臨戦第一課(五)(2025年9月13日(土)18時配信)

