吉川英治『三国志(新聞連載版)』(609)臨戦第一課(一)
昭和16年(1941)9月10日(水)付掲載(9月9日(火)配達)
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この当時である。曹操は大いに職制改革をやつてゐた。つねに内政の清新を図り、有能な人物はどし/\登用して、閣僚の強化につとめ、
(事あれば、いつでも)
といふ、いわゆる臨戦態勢をととのへてゐた。
毛玠(モウカイ)が東曹掾(トウサウのエン)に任じられ、崔琰(サイエン)が西曹掾(セイサウのエン)に挙げられたのも此(この)頃である。わけて出色な人事と評されたのは、主簿(シユボ)司馬朗(シバラウ)の弟で、河内(カダイ)温(ウン)の人、司馬懿(シバイ)、字(あざな)を仲達(チウダツ)といふものが、文学掾(ブンガクのエン)として、登用されたことだつた。
その司馬仲達は、もつぱら文教方面や選挙の吏務にあつたので文官の中には、異色を認められてゐたが、軍政方面には、まだ才略の聞えもなかつた。
やはり軍部に重きをなしてゐるのは依然、夏侯惇(カコウジユン)、曹仁、曹洪などであつた。
一日、南方の形勢について、軍議のあつた時、その夏侯惇は、進んでかう献議した。
「いま劉玄徳は、新野にあつて、孔明を師となし、しきりに兵馬を調練してをるとか、捨ておいては後日の大患。まづ、この邪魔石を取(とり)除いて、然(しか)る後、次の大計に臨むのが順序でせう」
諸大将のうちには、異論を抱くらしい顔色も見えたが、曹操がすぐ、
「その儀、宜(よろ)しからう」
と云つたので、即座に、玄徳討伐の事は、決定を見てしまつた。
すなはち、夏侯惇を総軍の都督とし、于禁、李典を副将とした十万の軍団は編制され、吉日をえらんで発向することゝなつた。
その間に、荀彧は、二度ばかり曹操の前で、異論を立てた。
「——聞説(きくならく)、孔明といふものは、尋常一様な軍師ではないやうです。労々(かた/゛\)、いま軽々しく、玄徳に当ることは、勝つても、利は少く、敗れゝば、中央の威厳を陥し、失ふところが大きいでせう。よく/\こゝはお考へあつては如何ですか」
夏侯惇は、側で笑つた。
「玄徳、孔明など、いづれも定まつた領地もない野鼠(ヤソ)の輩(ともがら)でしかない。そのお説は餘りに取越し苦労すぎる」
「いや/\、将軍、決して玄徳は侮れませんぞ」
ふいに、横あひから、荀彧に加勢して云つた者がある。見ると、先頃まで新野にゐて親しく玄徳の近況を知つてゐる徐庶であつた。
「おお、徐庶か——」と、曹操は彼の存在を見出して急にたづねた。
「新(あらた)に、玄徳の軍師となつた孔明とは、抑(そも)、どんな人物か」
「諸葛亮、字(あざな)を孔明、また道号を臥龍先生と称して、上(かみ)は天文に通じ、下(しも)は地理民情をよくさとり、六韜(リクタウ)をそらんじ、三略を胸にたゝみ、神算鬼謀、実に、世のつねの学徒や兵家ではありません」
「其(その)方(ハウ)と較べれば……?」
「それがしなどは、較べものになりません。それがしを蛍とすれば孔明は月のやうなものでせう」
「それほどか」
「いかで彼に及びませう」
すると、夏侯惇は、徐庶のことばを叱つて、更に、大言した。
「孔明も人間は人間であらう。さう大きな違ひがあつて堪(たま)るものではない。総じて、凡人と非凡人との差も、紙一重といふくらゐなものだ。この夏侯惇の眼から見れば若輩孔明のごときは、芥(あくた)にひとしい。第一、あの黄口児(クワウコウジ)はまだ実戦の体験すら持たないではないか。もしこの一陣で、彼を生捕つて来なかつたら、夏侯惇はこの首を自ら丞相の臺下に献じる」
曹操は、彼のことばを壮なりとして、欣然、出陣の日は、自身、府門に馬を立てゝ、十万の将士を見送つた。
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