吉川英治『三国志(新聞連載版)』(608)蜂と世子(せいし)(五)
昭和16年(1941)9月9日(火)付掲載(9月8日(月)配達)
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孔明は、懇(ねんごろ)に話した。
「むかし、春秋の時代に晋の献公(ケンコウ)の夫人には、二人の子があつた。兄を申生(シンセイ)といひ、弟を重耳(チヨウジ)といふ」
例話をひいて、劉琦に教へるのである。劉琦は、全身を耳にして熱心に聞いてゐた。
「——ところが、やがて献公の第二夫人の驪姫(リキ)にもひとりの子が生れた。驪姫はその子に国を継がせたく思ひ、つねに正室の子の申生や重耳を悪く云つてゐた。けれど献公が見るに、正室の子はいづれも秀才なので、驪姫が讒言(ザンゲン)しても、それを廃嫡する気にはなれずにゐた……」
「その申生は、さながら、私のいまの境遇とよく似てをります」
「——で、驪姫は、春あたゝかな一日(あるひ)、献公を楼上に迎へて、簾(すだれ)のうちから春園の景をうかゞはせ、自分はひそかに、襟(えり)に蜜を塗つて申生を園に誘ひ出したものです。——すると、多くの蜂が、当然、甘い蜜の香(か)を嗅(か)いで、驪姫の髪や襟元へむらがつて来ました。……あなやと、何も知らない申生は驪姫の身を庇(かば)ひながらその襟を打つたり背を払つたりしました。楼上から見てゐた献公はそれを眺めて、怖しく憤りました。驪姫にたはむれたものと疑つたのです。——以来、申生を憎むことふかく、事々に子を邪推するやうになりました」
「ああ。……蔡夫人もそんな風です。いつかしら、理由なく、私も父の劉表には〔うとんじ〕られてをりまする」
「一策が成功すると、驪姫の悪は勇気づいて、また一つの悪策をたくみました。先后の祭のときです。驪姫はそつと供へ物に、毒を秘めておいて、後(のち)、申生に云ふには母上のお供へ物を、そのまゝ厨房に退(さ)げては勿体ない。父君におすすめなさいと。——申生は驪姫に云はるゝまゝ父の献公へそれをすすめた。ところへ驪姫が入つて来て、外から来た食物を試みず召上がつてはいけません——さう云つて一箇を犬へ投げ与へた。犬は立ちどころに血を吐いて死んだ。献公はうま/\驪姫の手にのつて申生を殺してしまはれた」
「……噫(あゝ)、そして、弟の重耳のはうは、どうしましたか」
「次には、わが身へくる禍と重耳は未然に知りましたから、他国へ走つて、身をかくしました。そして十九年後、初めて世に出た晋の文公は——すなはちそのむかしの重耳であつたのです。……今、荊州の東南、江夏の地は、呉のために黄祖が討たれてから後(のち)、守る人もなく打捨てゝあります。御世子、あなたが、継母の禍(わざはひ)をのがれたいと思し召すなら、父君に乞うてそこの守りへ望んで行くべきです。重耳が国を出て身の難をのがれたのと同じ結果を得られませう」
「先生。ありがたう存じます。琦は、にはかに、猶(なほ)生きてゆかれる気がして来ました」
彼は、幾度も拝謝して、手を鳴らして家臣を呼び、降り口に梯子をかけさせて、孔明を送り出した。
孔明は立ち帰つて、この事を、有(あり)の儘(まゝ)に、玄徳に告げると、玄徳も、
「それは良計であつた」
と、共に歓んでゐた。
間もなく又、荊州から迎への使が来た。玄徳が登城してみると、劉表はかう相談を向けた。
「嫡男の琦が、何を思ひ出したか、急に、江夏の守りに遣(や)つてくれと申すのぢや、どういふものであらうか」
「至極、結構ではありませんか、御膝下(おひざもと)を離れて、遠くへ行く事は、よい御修行にもなりませうし、また、江夏は呉との境でもあり、重要な地ですから、どなたか御近親をひとり置かれることは、荊州全体の士気にもよい事と思はれます」
「さうかなあ」
「総じて、東南の防ぎは、公と御嫡子とで、お計りください。不肖劉備は、西北の防ぎに当りますから」
「……むむ。聞けば近ごろ、曹操も玄武池(ゲンブチ)に兵船を造つて、舟手の教練に怠りないといふ噂ぢや。いづれ南征の野心であらう。切に御辺の精励を恃(たの)むぞ」
「どうか、御安心下さい」
玄徳は新野へ帰つた。
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