吉川英治『三国志(新聞連載版)』(606)蜂と世子(せいし)(三)
昭和16年(1941)9月6日(土)付掲載(9月5日(金)配達)
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呉の国家は、日ましに勢ひを加へてゆく。
南方の天、隆昌の気が漲(みなぎ)つてゐた。
いま、呉の国力が、もつとも力を入れてゐるのは、水軍の編制であつた。
造船術も、こゝ急激に、進歩を示した。
大船の建造は旺(さかん)だつた。それをどん/\鄱陽湖(ハヤウコ)にあつめ、周瑜が水軍大都督となつて、猛演習をつづけてゐる。
孫権自身もまた、それに晏如(アンジヨ)としてはゐなかつた。叔父の孫静に呉会を守らせて、鄱陽湖に近い柴桑郡(サイサウグン)(江西省・九江西南)にまで営をすゝめてゐた。
その頃。
玄徳は新野にあつて、すでに孔明を迎へ、彼も将来の計にたいして、準備をさ/\怠りない時であつた。
「——はてな。一大事があるといつて、荊州から、迎への急使が見えた。行くがよいか。行かぬがよいか?」
その日、玄徳は、劉表の書面を手にすると、頻(しき)りに考へこんでゐた。
孔明が、すぐ明らかな判断を彼に与へた。
「御出向きなさい。——怖らく、呉に敗れた黄祖の寇(あだ)を討つための御評議でせう」
「劉表に対面した節は、どういふ態度をとつてゐたがよいだらうか」
「それとなく、襄陽の会や、檀渓の難の事をお話しあつて、もし劉表が、呉の討手を君へお頼みあつても、かならずお引受けにならないことです」
張飛、孔明などを具して、玄徳はやがて、荊州の城へ赴いた。
供の兵五百と張飛を、城外に待たせておき、玄徳は孔明とふたりきりで城へ登つた。
そして、劉表の階下に、拝をすると、劉表は堂に迎へて、すぐ自分の方から、
「先ごろは襄陽の会で、貴公に不慮の難儀をかけて申しわけない。蔡瑁を斬罪に処して、お詫びを示さうとぞんじたが、当人も諸人が慚愧して嘆くので心ならずもゆるしておいた。どうかあの事は水にながして忘れてもらひたい」
と、云つた。
玄徳は、微笑して、
「何の、あの事は、蔡将軍の仕業ではありません。怖らく末輩(マツパイ)の小人|(セウニン)輩(ばら)がなした企みでせう。私はもう忘れてをります」
「ときに、江夏の敗れ、黄祖の戦死を、お聞き及びか」
「黄祖は、自ら滅びたのでせう。平常心の躁(さわ)がしい大将でしたから、いつかこの事あるべきです」
「呉を討たねばならんと思ふが……?」
「お国が南下の姿勢をとると、北方の曹操が、すぐ虚にのつて、攻め入りませう」
「さ。……そこが難しい。……自分も近ごろは、老齢に入つて、しかも多病。いかんせむ、この難局に当つて、あれこれ苦慮すると、昏迷してしまふ。……御辺は、漢の宗族、劉家の同族。ひとつわしに代つて、国事を治め、わしの亡いあとは、この荊州を継いでくれまいか」
「おひきうけ出来ません。この大国、またこの難局、どうして菲才(ヒサイ)玄徳ごときに、任を負うて立てませう」
孔明は傍(かたは)らにあつて、しきりと玄徳に眼くばせしたが、玄徳には、通じないものか、
「そんな気の弱いことを仰せられず、肉体の御健康に努め、心をふるひ起して、国治のため、更に、良策をお立て遊ばすやうに」
とのみ云つて、やがて、城下の旅館に退つてしまつた。あとで、孔明が云つた。
「なぜお引受けにならなかつたのですか」
「恩をうけた人の危(あやふ)いのを見て、それを自分の歓びにはできない」
「——でも、国を奪ふわけではありますまいに」
「譲られるにしても、恩人の不幸は不幸。自分にはあきらかな幸(さいはひ)。——玄徳には忍びきれぬ」
孔明は、そつと嘆じて、
「なるほど、あなたは仁君でいらつしやる」
と、是非なげに呟いた。
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次回 → 蜂と世子(四)(2025年9月6日(土)18時配信)

