吉川英治『三国志(新聞連載版)』(604)蜂と世子(せいし)(一)
昭和16年(1941)9月4日(木)付掲載(9月3日(水)配達)
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呉はこゝに、陸海軍とも大勝を博したので、勢に乗つて、水陸から敵の本城へ攻めよせた。
さしも長い年月、こゝに、
(江夏の黄祖あり)
と誇つてゐた地盤も、いまは痕形(あとかた)なく呉軍の蹂躙(ジウリン)するところとなつた。
城下に迫ると、この土地の案内に誰(たれ)よりもくわしい甘寧は、まツ先に駆け入つて、
「黄祖の首を、餘人の手に渡しては恥辱だ」
と、血まなこになつてゐた。
西門、南門には、味方が押しよせてゐるが、誰(たれ)もまだ東門には迫つてゐない。黄祖は恐らくこの道から逃げだして来るだらうと、門外数里の外に待ち伏せてゐた。
やがて、江夏城の上に、黒煙があがり、望閣(バウカク)楼殿(ロウデン)すべて焰と化した頃、大将黄祖は、さん/゛\討ち崩されて、部下わづか二十騎ばかりに守られながら東門から駆け出して来た。
すると、道の傍らから、鉄甲五、六騎ばかり、不意に黄祖の横へ喚きかゝつた。甘寧は先手を取られて、
「誰(たれ)か?」
と見ると、それは呉の宿将程普とその家臣たちであつた。
程普が、けふの戦ひに、深く期して、黄祖の首を狙つてゐたのは当然である。
黄祖の為(た)めに、むなしく遠征の途に於て敗死した孫堅以来、二代孫策、そしていま三代の孫権に仕へて、歴代、武勇に負けをとらない呉の宿将として——
「けふこそは」
と、晴(はれ)がましく、故主の復讐を祈念してゐたことであらう。
けれど、甘寧としても、指を咥(くは)へて見てはゐられない。
出遅れたので、彼はあわてゝ、腰なる鉄弓をつかみ把(と)り、一矢を番(つが)へて、丁(チヤウ)ツと放つた。
矢は、見事に、黄祖の背を射た。——だうと黄祖が馬から落ちたのを見ると、
「射止めた! 敵将黄祖を討つた!」
と、どなりながら駆け寄つて、程普とともに、その首を挙げた。
江夏占領の後、二人は揃つて黄祖の首を孫権の前に献じた。
孫権は、首を地に抛(なげう)つて、
「わが父、孫堅を殺した仇(かたき)。匣(はこ)に容(い)れて、本国へ送れ。蘇飛の首と二つそろへて、父の墳墓(つか)を祭るであらう」と、罵つた。
諸軍には、恩賞をわかち、彼も本国へひき揚げることになつたが、その際、孫権は、
「甘寧の功は大きい。都尉に封(ホウ)じてやらう」と云ひ、また江夏の城へ兵若干をのこして、守備にあてようと諮つた。
すると、張昭が、
「それは、策を得たものではありません」
と、再考を促して、
「この小城一つ保守するため、兵をのこしておくと、後々(あと/\)まで、固執せねばならなくなります。しかも長くは維持できません。——むしろ思ひ切りよく捨てゝ帰れば劉表がかならず、兵を入れて、黄祖の仕返しを計つて来ませう。それを又討つて、敵の雪崩(なだ)れに乗じて、荊州まで攻め入れば、荊州に入るにも入り易く、この辺の地勢や要害は味方の経験ずみですから二度でも三度でも、破るに難い事はありますまい」
と、江夏を囮(おとり)として劉表を誘ふといふ一計を案出して語つた。
「至極、妙だ」
孫権も、賛成して、右領地はすべて放棄するに決し、総軍、凱歌を兵船に盛つて、きれいに呉の本国へ還つてしまつた。
さてまた。
檻車(カンシヤ)に抛(はふ)り込まれて、さきに呉へ護送されてゐた黄祖の臣——大将蘇飛は、呉の総軍が、凱旋して来たと人(ひと)伝(づ)てに聞いて、
「さうだ、以前、自分が甘寧を助けてやつたこともあるから……甘寧に頼んでみたら、或(あるい)は助命の策を講じてくれるかもしれない」
と、ふと旧誼を思ひ出し、書面を書いて、ひそかにその手渡を人に頼んだ。
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次回 → 蜂と世子(二)(2025年9月4日(木)18時配信)

