吉川英治『三国志(新聞連載版)』(602)鈴音(れいおん)(三)
昭和16年(1941)9月2日(火)付掲載(9月1日(月)配達)
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【前回迄の梗概】
◇…漢室再興の待望を抱く劉備玄徳は、未だ新野の小城主たるに過ぎないが、智謀諸葛孔明を幕下に聘して魏の曹操が天の時、呉の孫権が地の利を得たのに対し、我に人の和ありと意気大いに揚る。
◇…時に呉国では孫権の母呉夫人世を去り、血気さかんの孫権は母の遺言を体して、先づ江夏の黄祖討伐を図らんとする。
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「時なるかな!」と、孫権は手を打つてよろこんだ。
「いま、黄祖を討つ計を議するところへ、甘寧が数百人を率ゐて、わが領土へ亡命して来たのは、これ潮満ちて江岸の草の戦(そよ)ぐにも似たり——といふべきか。天の時が来たのだ。黄祖を亡ぼす前兆だ。すぐ、甘寧を呼び寄せい」
かう孫権の命をうけ、呂蒙も大いに面目をほどこして、直(たゞち)に、龍湫(リウシウ)へ早馬を引つ返して行つた。
日ならずして、甘寧は、呉会の城に伴はれて来た。
孫権は、群臣をしたがへて彼を見た。
「かねて、其(その)方(ハウ)の名は承知してをる。また、出国の事情も呂蒙から聞いた。この上は、ただわが呉のために、黄祖を破るの計は如何に、それを訊きたい。忌憚(キタン)なく申してみよ」
孫権はまづ云つた。
拝礼して、甘寧は答へる。
「漢室の社稷(シヤシヨク)は今いよ/\危く、曹操の驕暴は、日と共に募りゆきます。おそらく、簒奪(サンダツ)の逆意をあらはに示す日も遠くありますまい」
「荊州は呉と隣接してをる。荊州の内情をふかく語つてみよ」
「江川(カウセン)の流れは山陵を縫ひ、攻守の備へに缺(か)くるなく、地味は拓(ひら)けて、民は豊(ゆたか)です。——しかしこの絶好な国がらにも、たゞ一つ、脆弱な短所があります。国主劉表の閨門(ケイモン)の不和と、宿老の不一致です」
「劉表は、温良博学な風をそなへよく人材を養ひ、文化を愛育し、ために天下の賢才はみな彼の地に集まると、世上では申してゐるが——」
「正にその通りです。けれどそれは専ら劉表の壮年時代の定評で、晩年、気は老い、身に病(やまひ)の多くなるにつれ、彼の長所は、彼の短所となり、優柔不断、外に大志なく、内に衰へ、虚に乗じて、閨門のあらそひを繞(めぐ)り、嫡子庶子のあひだに暗闘があるなど、——漸く亡兆の蔽(おほ)ひ得ないものが見えだしました。討つなら今です」
「その荊州に入るには」
「もちろん江夏の黄祖を破るのを前提とします。黄祖は怖るゝに足りません。彼もはや老齢で、時務には昏昧(コンマイ)し、貨利をむさぼる事のみ知つて、上下、心から服してをりませぬ」
「兵糧武具の備へはどうか」
「軍備は充実してゐますが、活用を知らず、法伍(ハフゴ)の整へなく、これを攻めれば、立ち所に崩壊するだらうと思ひます。——君いま、勢ひに乗つて、江夏、襄陽を衝(つ)き、楚関(ソカン)にまで兵をおすゝめあれば、やがて、巴蜀(ハシヨク)を図ることも難しくはございますまい」
「よく申した。まことに金玉の論である。この機を逸してはなるまい」
孫権はすぐ周瑜に向つて、兵船の準備をいひつけた。
張昭は、憂へて、
「いま、兵を起し給はば、おそらく国中の虚にのつて、乱が生じるでせう。せめて母公の喪のおすみになる迄(まで)、国内の充実にお心を傾けられてはどうですか」
と、敢て苦言した。
甘寧は、遮つて、
「それ故に、国家は今、蕭何(セウカ)の任を、御辺に附与するのである。乱を憂へられるなら、よく国を守つて、後事におつくしあるやうねがひたい」
「すでにわが心は決つた。張昭も他事をいふな。一同して、盃(さかづき)を挙げよう」
孫権は、一言を以て、衆議を抑へた。
そして、また甘寧にむかひ、
「其(その)方(ハウ)をさし向けて、黄祖を討つ事は、例へばこの酒の如しぢや。一気に呑みほしてしまふがよい。もし黄祖を破つたら、その功は、汝のものであるぞ」
と、盃になみ/\と酒を湛(たゝ)へて与へた。
かくて、周瑜を大都督に任じ、呂蒙を先手の大将となし、董襲(トウシフ)、甘寧を両翼の副将として、呉軍十万は、長江を溯(さかのぼ)つて江夏へおしよせた。
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