吉川英治『三国志(新聞連載版)』(601)鈴音(れいおん)(二)
昭和16年(1941)8月31日(日)付掲載(8月30日(土)配達)
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喪(も)の冬はすぎて、歳は建安十三年に入つた。
江南の春は芽ぐみ、朗天は日々つゞく。
若い呉主孫権は、早くも衆臣をあつめて、
「黄祖を伐(う)たうではないか」
と評議にかけた。
張昭は云ふ。
「まだ母公の忌年も周(めぐ)つて来ないうちに、兵を動かすのは如何(いかゞ)なものでせう」
周瑜はそれに対して、
「黄祖を伐てとは、母君(ボクン)の御遺言の一つであつた。何で喪に拘(かゝは)ることがあらう」
と酬(むく)いた。
いづれを採るか、孫権はまだ決しかねてゐた。
ところへ、都尉(トヰ)呂蒙(リヨモウ)が来て、一事件を披露した。
「それがし龍湫(リウシウ)の渡口(わたし)を警備してをりますと、上流江夏の方(かた)から、一艘の舟が漂ひ来(きた)つて、約十名ほどの江賊が、岸へ上がつて参りました」
呂蒙はまづ、かう順を追つて、次のやうに話したのである。
「——すぐ取囲んで、何者ぞと、取(とり)糺(たゞ)しましたところ、頭目らしき真つ先の男が云ふには——自分事は、黄祖の手下で、甘寧(カンネイ)字(あざな)を興覇(コウハ)とよぶ者であるが、もと巴郡(ハグン)の臨江(リンカウ)に育ち、若年から腕〔だて〕を好み、世間の〔あぶれ〕者を集めては、その餓鬼大将となつて、喧嘩を誇り、伊達(だて)を競ひ、常に強弓(ガウキウ)、鉞(まさかり)を抱へ、鎧を重ね、腰には大剣と鈴をつけて、江湖を横行すること多年、人々、鈴の音(ね)を聞けば……錦帆(キンパン)の賊が来たぞ!錦帆来(キンパンライ)!と逃げ走るのを面白がつて、つひには同類八百餘人をかぞふに至り、いよいよ悪行を働いてゐたなれど、時勢の赴くを見、前非を悔いあらため一時、荊州に行つて劉表に仕へてゐたけれど、劉表の人となりも頼もしからず、同じ仕へるなら、呉へ参つて、粉骨砕身、志を立てんものと、同類を語らひ、荊州を脱して、江夏まで来たところが、江夏の黄祖が、何(ど)うしても通しません。やむなく、暫く止まつて、黄祖に従つてをりましたが、元より重く用ひられるわけもない。……のみならずです、或(ある)年の戦ひに、黄祖敵中にかこまれて、〔すんで〕に一命も危(あやふ)いところを、自分がたゞ一人で、救ひ出して来た事などもあつたが、曽(か)つて、その恩賞すらなく、飽(あく)まで、下役(ゲヤク)の端に飼はれてゐるに過ぎないといふ有様でした。——然(しか)るに又、こゝに黄祖の臣で蘇飛(ソヒ)といふ人がある。この人、それがしの心事にふかく同情して、或(ある)時、黄祖に向ひ、それとなく、甘寧をもつと登用されては如何にと——推挙してくれたことがあつたのです。すると黄祖の云ふには。——甘寧はもと江上の水賊である。何で強盗を帷幕に用ふべき。飼ひ置いて猛獣の代りに使つておけば一番よろしい。——さう申したので、蘇飛はいよ/\それがしを憐れみ、一夜酒宴の折、右の事情を打明けて——人生いくばくぞや、早く他国へ去つて、如(し)かじ、良主を他に求め給へ。こゝにゐては、足下はいかに忠勤をぬきん出ても、前科の咎(とが)を生涯負ひ、人の上に立つなどは思ひよらぬこと。と教へてくれました。……では何(ど)うしたらいいかを、更に蘇飛に訊くと、近いうちに、鄂県(ガクケン)の吏(リ)に移すから、その時に、逃げ去れよとのことに、三拝して、その日を待ち、任地へ赴(い)く舟と偽(いつは)つて、幾夜となく江を下り、漸く、呉の領土まで参つた者でござる。何とぞ、呉将軍の閣下に、よろしく披露したまへと——以上、甘寧はつぶさに身上(みのうへ)を物語つて、それがしに取次ぎを乞ふのでございました」
「むゝ。……成程」
孫権を初め、諸将みな、重々しくうなづいた。
呂蒙は、なほかう云ひ足して、報告を結んだ。
「甘寧といへば、黄祖の藩にその人ありと、隣国にまで聞えてゐる勇士、さるにても、憐(あはれ)なることよと、それがしも仔細を聞いて、その心事を思ひやり……わが君がお用ひあるや否やは保證の限りではないが、有能の士とあれば、篤く養ひ、賢人とあれば礼を重うしてお迎へある明君なれば、ともあれ御前にお取次ぎ申すであらうと、矢を折つて、誓を示したところ、甘寧はさらに江上の船から数百人の手下を陸へ呼びあげて——否やお沙汰の下るまで慎んで待ち居りますと——唯(たゞ)今、龍湫の岸辺に屯(たむろ)して、さし控へてをりまする」
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なお、日曜日については夕刊が休刊のため、配信はありません。

