吉川英治『三国志(新聞連載版)』(600)鈴音(れいおん)(一)
昭和16年(1941)8月30日(土)付掲載(8月29日(金)配達)
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孫高、傅嬰の二人は、その夜すぐ兵五十人をつれて、戴員(タイヰン)の邸(やしき)を襲ひ、
「仇(かたき)の片割れ」
と、その首を取つて主君の夫人徐氏へ献じた。
徐氏はすぐ喪服を被つて、亡夫の霊を祭り、嬀覧、戴員二つの首を供へて、
「お怨みをはらしました。妾(わたくし)は生涯他家へは嫁ぎません」
と、誓つた。
この騒動はすぐ呉主孫権の耳へ聞えた。孫権は驚いてすぐ兵を率ゐて、丹陽に馳せつけ、
「わが弟を討つた者は、われに弓を引ゐたも同然である」
と、一類の者、こと/゛\く誅罰(チユウバツ)した後、あらためて、孫高、傅嬰のふたりを登用し、牙門督兵(ガモントクヘイ)に任じた。
また、弟の妻たる徐氏には、
「あなたの好きなやうに、生涯を楽(たのし)んでください」
と、祿地を添へて、郷里の家へ帰した。
江東の人々は、徐氏の貞烈を称(たゝ)へて、
「呉の名花だ」
と、語りつたへ、史冊にまで名を書きとゞめた。
それから三、四年間の呉は、至極平和だつたが建安十二年の冬十月、孫権の母たる呉夫人が大病にかゝつて、
「こんどは、どうも?」
と、憂へられた。
呉夫人自身も、それを自覚したものとみえる。危篤の室へ、張昭や周瑜などの重臣を招いて遺言した。
「わが子の孫権は、呉の基業をうけてからまだ歳月も浅く年齢も若い。張昭と周瑜のふたりは、どうか師傅(シフ)の心をもつて、孫権を教へてください。そのほかの諸臣も、心を協(あは)せて、呉主を扶(たす)け、かならず国を失はぬやうに励まして賜(た)もれ。江夏の黄祖は、むかしわが夫(つま)の孫堅を滅(ほろぼ)した家の敵(かたき)ですから、きつと冤(あだ)を報じなければなりませぬ……」
また、孫権にむかつては、
「そなたには、そなただけの長所もあるが、短所もある。お父上の孫堅、兄君の孫策、いづれも寡兵をひつさげて、戦乱の中に起(た)ち、千辛万苦の浮沈をつぶさにお舐(な)め遊ばして、始めて、呉の基業をおひらきなされたものぢやが、そなたのみは、まつたく呉城の楽園に生れて楽園に育ち、今、三代の世を受け継いで君臨してをられる。……ゆめ、驕慢(ケウマン)に走り、父兄の御苦労をわすれてはなりませんぞ」
「御安心ください」
孫権は、老母の手を、かろく握つて、その細さに愕(おどろ)いた。
「——それから張昭や、周瑜などは、良い臣ですから、呉の宝ぞと思ひ、平常、教へを聞くがよい。……また、わたくしの妹も、後堂にゐる。いまから後は、そなたの母として、仕へなければいけません」
「……はい」
「わたくしは、幼少のとき、父母に早くわかれ、弟の呉景(ゴケイ)と、銭塘(センタウ)へ移つて暮してゐるうち、亡き夫(つま)の孫堅に嫁したのでした。そして四人の子を生んだ。……けれど、長男の孫策も若(わか)死(じに)してしまひ、三男の孫翊も先頃横死してしまうた。……残つてゐるのは、そなたと、末の妹のふたりだけぢや、……権よ。あのひとりの妹も、よく可愛がつてやつておくれ。……よい婿(むこ)をえらんで嫁がせてくださいよ。……もし、母のことばを違(たが)へたら、九泉(キウセン)の下で、親子の対面は〔かなひ〕ませんぞ」
云ひ終ると、忽然、息をひきとつた。
枕頭をめぐる人々の嗚咽(ヲエツ)の声が外まで流れた。
高陵の地、父の墓のかたはらに、棺槨(クワンクワク)衣衾(イキン)の美を供へて、孫権はあつく葬つた。歌舞音曲の停(と)まること月餘、たゞ祭祠(まつり)の鈴音と鳥の啼く音(ね)ばかりであつた。
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次回 → 鈴音(二)(2025年8月30日(土)18時配信)

