吉川英治『三国志(新聞連載版)』(599)呉の情熱(四)
昭和16年(1941)8月29日(金)付掲載(8月28日(木)配達)
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嬀覧の悪は、それだけに止(とゞ)まらない。猶(なほ)、べつな野望を抱(いだ)いてゐたのである。
一方、孫翊の妻の徐氏は、良人の帰りがおそいので、
「もしや、易に現れたやうに、何か凶事があつたのではないか」
と、自分の卜(うらなひ)が的中しないことを今はしきりに禱(いの)つてゐた。気のせゐか、こよひに限つて、燈火(ともしび)の色も凶(わる)い。
「どうして、こんなに胸騒ぎが……?」
ふと、帳(とばり)を出て、夜の空を仰いでゐると、中門の方から歩廊へかけて、どや/\と一隊の兵が踏みこんで来た。
「徐氏か」
先頭のひとりが云ふ。
見ると、刀を横たへた都督嬀覧だつた。
兵をうしろに残して、づか/\と十歩ばかり進んで来ると、
「夫人。あなたの良人孫翊は、こよひ部下の辺洪のため、会館の門外で斬り殺された。——が下手人辺洪は、即座にひツ捕へて、市へ曳き出し首を打(うち)落して、讐(かたき)を取つた。——この嬀覧があなたに代つて仇を打つてあげたのだ」
恩着せがましく、かう云つて、
「もう悲しまぬがよい。何事もこれからは、嬀覧がお力になつてあげる。この嬀覧に御相談あるがよい」
と、腕をとらへて、彼女の室へはいらうとした。
「……」
徐氏は一時茫然としてゐたが、軽く、腕を払つて、
「いまは、何も、御相談を願ふこともありません」
「では、また参らう」
「人の眼もあります。月の末の——晦日(つごもり)にでも」
徐氏が涙を含まないのみか、むしろ媚(こび)すら見える眸に、嬀覧は独り頷(うなづ)いて、
「よろしい、では、その時に」
と、有頂天になつて帰つた。
底知れぬ悪党とは、嬀覧のごときを云ふのだらう、彼は疾(と)くから徐氏の美貌を窺(うかゞ)つて毒牙を磨いてゐたのである。
徐氏は、悲嘆のうちに、良人の葬儀を終つて、後、ひそかに亡夫の郎党で、孫高(蘇ンカウ)、傅嬰(フエイ)といふ二人の武士を呼んだ。
そして、哭(な)いて云ふには、
「わが夫(つま)を殺した者は、辺洪といふことになつてゐるが、妾(わらは)は信じません。真の下手人は、都督嬀覧です。卜(うらなひ)のうへで云ふのではない、證拠のあることです、そなた達へ向つて、口にするも恥かしいが、嬀覧は妾に道ならぬ不義を挑みかけてゐる。妻になれと迫るのです。……で、虫をころして、晦日(つごもり)の夜に来るやうに約束したから、そのときは、妾(わらは)の声を合図に、躍りかゝつて、良人の仇(かたき)を刺して賜(た)も。どうかこの身に力をかして賜もれ」
忠義な郎党と、彼女が見抜いて打明けた者だけに、二人は悲涙をたゝへて、亡君の恨み、誓つて晴らさんものと、その夜を待つてゐた。
嬀覧は、やつて来た。——徐氏は化粧して酒盞(シユサン)を清めてゐた。
すこし酔ふと、
「妻になれ、否か、応か」
嬀覧は、本性をあらはして、徐氏の胸へ、剣を擬して強迫した。
徐氏は、ほゝ笑んで、
「あなたでせう」
と、云つた。
「もちろん、俺の妻になれといふのに極(きま)つてゐる」
「いゝえ、良人の孫翊を殺させた張本人は」
「げつ?な、なんだ」
徐氏は、ふいに、彼の剣の手元をつかんで、死物狂ひに絶叫した。
「良人の仇(かたき)つ。——傅嬰よ!孫高よ!この賊を、斬り伏せておくれつ」
「——応つ」
と、躍り出た二人の忠僕は、嬀覧のうしろから一太刀づゝあびせかけた。徐氏も奪ひ取つた剣で敵の脾腹(ひばら)を突きとほした。そして初めて、朱(あけ)の中に俯(う)つ伏しながら哭(な)けるだけ哭いてゐた。
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