吉川英治『三国志(新聞連載版)』(598)呉の情熱(三)
昭和16年(1941)8月28日(木)付掲載(8月27日(水)配達)
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この戦では、初め江上の船合戦で、呉軍のはうが、絶対的な優勢を示してゐたが、将士共に、
「黄祖の首は、もう掌(て)のうちのもの」
と、餘りに敵を見くびりすぎた結果、陸戦に移つてから、大敗を招いてしまつた。
もつとも大きな傷手(いたで)は、孫権の大将(タイシヤウ)凌操(リヨウサウ)といふ剛勇な将軍が、深入して、敵の包囲に遭ひ、黄祖の麾下(キカ)甘寧(カンネイ)の矢に中(あた)つて戦死したことだつた。
為に、士気は沮喪(ソサウ)し、呉軍は潰走(クワイソウ)を餘儀なくされたが、この時、ひとり呉国の武士のために、万丈の気を吐いた若者があつた。
それは将軍凌操の子(こ)凌統(リヨウトウ)で、まだ十五歳の年少だつたが、父が、乱軍の中に射(い)仆(たふ)されたと聞くや、たゞ一名、敵中へ取つて返し、父の屍(かばね)をたづねて馳せ返つて来た。
孫権は、逸(いち)早く、
「この軍(いくさ)は不利」
と、見たので、思ひきりよく本国へ引揚げてしまつたが、弱冠凌統の名は、一躍味方のうちに知れ渡つたので、
「まるで、凌統を有名にするために、戦ひに行つたやうなものだ」
と、時の人々は云つた。
翌九年の冬。
孫権の弟、孫翊(ソンヨク)は、丹陽(タンヤウ)の太守となつて、任地へ赴いた。
何しろ、まだ若い上に、孫翊の性格は、短気で激越だつた。おまけに非常な大酒家で、平常、何か気に入らない事があると、部下の役人であらうと士卒であらうと、すぐ面罵して鞭打つ癖(くせ)があつた。
「殺(や)つてしまはう」
「貴様がその決意ならば、俺も腕をかす」
丹陽の都督に、嬀覧(ギラン)といふ者がある。同じ怨みを抱(いだ)く郡丞(グンジヨウ)の戴員(タイイン)と、つひにかういふ肚(はら)を合せ、ひそかに対手(あひて)の出入(シユツニフ)を窺(うかゞ)つてゐた。
しかし、孫翊は、若年ながら大剛の傑物である。つねに剣(は)を佩いて、眼気(ガンキ)に隙(すき)も見えない為、むなしく機を過してゐた。
そこで二人は、一策を構へ、呉主孫権に上申して、附近の山賊を討伐したい由を願つた。
すぐ、許しが出たので、嬀覧はひそかに、孫翊の大将(タイシヤウ)辺洪(ヘンコウ)といふ者を同志に抱きこんで、県令や諸将に、評議の招きを発した。評議のあとは、酒宴といふことになつてゐる。
孫翊も、もちろん缺かせない会合であるから、時刻がくると、身仕度して、
「ぢやあ、行つて来るぞ」
と、妻の室へ声をかけた。
彼の妻は、徐氏(ジヨシ)といふ。
呉には美人が多いが、その中でも、容顔世に超えて、麗名の高かつた女性である。そして、幼少から易学(エキガク)を好み、卜(うらなひ)を能(よ)くした。
この日も、良人の出るまへに、独り易を立てゝゐたが、
「どうしたのでせう。今日に限つて、不吉な卦(ケ)が出ました。何とか口実をまうけて、御出席は、お見合わせ遊ばして下さいませ」
頻(しき)りと、ひきとめた。
けれど孫翊は、
「ばかを云へ、男同士の会合に、さうは行かないよ。はゝゝ」
気にもかけず出かけてしまつた。
評議から酒宴となつて、帰館は夜に入つた。大酒家の孫翊は、蹌踉(ソウロウ)と、門外へ出て来た。かねて諜(しめ)し合わせてゐた辺洪は、ふいに躍りかゝつて、孫翊を一太刀に斬り殺してしまつた。
すると、その辺洪をそゝのかした嬀覧、戴員(タイイン)のふたりが、急に驚いた態(テイ)をして、
「主を害した逆賊め」
と、辺洪を捕へ、市へ引き出して、首を斬らうとした。
辺洪は、仰天して、
「約束がちがふ。この悪党め。張本人は、貴様たちでないか」
と、喚(わめ)いたが、首は喚いてゐる間に、地へ落ちてゐた。
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