吉川英治『三国志(新聞連載版)』(597)呉の情熱(二)
昭和16年(1941)8月27日(水)付掲載(8月26日(火)配達)
ターミナルページはこちら(外部サービス「note」にリンク)
前回はこちら → 呉の情熱(一)
***************************************
交々(こも/゛\)に起(た)つて、各自が、説くところ、論じるところ、種々(いろ/\)である。
質子(チシ)、送るべし。
となす者。
質子、送るべからず。
と、主張する者。
漸く、会議は、二派にわかれ、討論果(はて)しなく見えたが、
「周瑜に一言させて下さい」
と、初めて彼が発言を求めた。
呉夫人の妹の子である周瑜は、先主孫策と同い年であつたから、孫権よりは年上だが、諸大将のうちでは、最年少者であつた。
「さうだ、周瑜のことばを聞いてみよう。説きたまへ」
人々は、しばらく彼に耳を藉(か)した。
周瑜は、起立して云ふ。
「僭越ですが、私は、楚国の始めを憶(おも)ひ起(おこ)します。楚は初め、荊山(ケイザン)のほとり、百里に足らない土地を領し、実に微々たるものでしたが、賢能の士が集まつて、つひに九百餘年の基(もと)をひらきました。——いまわが呉は、孫将軍が、父兄の業をうけて、茲(こゝ)に三代、地は六郡の衆を兼(かね)、兵は精にし粮(ラウ)は豊(ゆたか)山を鋳て銅(あかがね)となし、海を煮て塩となす。民(たみ)乱を思はず、武士は勁勇(ケイユウ)、むかふところ敵なしです」
「……」
彼の演舌を聞くのは初めての人人もあつたらしく、多くは、その爽(さはや)かな辯と明白な理論に、意外な面持(おももち)を見せてゐた。
「……しかるに、何を恐れて、いま曹操の下風に媚びる必要がありませう。質子を送るは、属領を承認するも同じです。招かれゝば、呉将軍たりと、いつでも都へ上らねばならぬ、然るとき、相府に身を屈(かゞ)め、位(くらゐ)は一侯を出ず、車数乗、馬(うま)何(なん)十(ジフ)定(さだ)め以上の儀装もできません。いはんや、南面して、天下の覇業を行はんなど、思ひもよらぬ夢でせう。——まづこゝは、飽(あく)まで、無言をまもり質子も送らず、曹操のうごきを見てゐる秋(とき)ではないでせうか。曹操が真に漢朝の忠臣たる正義を示して天下に臨むなら、その時初めて、国交を開いても遅くはありません。またもし、曹操が暴逆をあらはし、朝廷に忠なる宰相でないやうなら、その時こそ、呉は天の時を計つて、大いに為すある大理想をもたねばなりますまい」
「……然(しか)り矣(イ)」
「さうだ。その時だ」
述べ了(おは)(ママ)つて、周瑜が、席へついても、しばらくは皆、感じ合つたまゝ、粛としてゐた。
意見は、完全に、一致を見た。無言のうちに、ひとつになつてゐた。
この日、簾中(レンチウ)に、会議のもやうを聴いてゐた呉夫人も、甥の周瑜の器量をたのもしく思つて、後に、近く彼を招き、
「おまへは、孫策と同年で、一月(ひとつき)おそく生れたばかりだから、わが子のやうに思はれる。これからも、よく孫権を扶けて賜(た)も」
と、懇(ねんご)ろなことばであつた。
かくて、この問題は、呉の黙殺により、そのまゝになつてしまつたが、中央の威権は、いたく傷(きずつ)けられたわけである。
曹操も、以来、使を下して来なかつた。——或る重大決意を、呉に対して抱いたであらうことは想像に難くない。
宣戦せざる宣戦——無言の国交断絶状態にはいつた。
が、長江の水だけは、千里を通じてゐる。
そのうちに。
建安八年の十一月ごろ。
孫権は、出征の要に迫つた。荊州の配下、江夏(湖北省、武昌)の城にある黄祖を攻めるためだつた。
兵船をそろへ、兵を満載して、呉軍は長江を溯(さかのぼ)つてゆく。
その軍容はまさに、呉にのみ見られる壮観であつた。
***************************************
次回 → 呉の情熱(三)(2025年8月27日(水)18時配信)

