吉川英治『三国志(新聞連載版)』(596)呉の情熱(一)
昭和16年(1941)8月26日(火)付掲載(8月25日(月)配達)
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眼を転じて、南方を見よう。
呉は、その後、どういふ推移と発展を遂げてゐたらうか。
こゝ数年を見較べるに——
曹操は、北方攻略といふ大事業をなしとげてゐる。
玄徳のはうは、それに反して、逆境また逆境だつたが、隠忍よく生きる道を見つけては、つひに孔明の出廬をうながし、孔明といふ人材を得た。
広大な北支の地を占めた曹操の業と、一箇の人物を野から見出した玄徳の収穫と、いづれが大きく、いづれが小さいか、この比較は、その結果を見るまでは、軽々しく即断はできない。
この間にあつて、呉の発展は、飽(あく)まで文化的であり、内容の充実にあつた。
何しろ、先主孫策のあとを継いで立つた孫権は、まだ若かつた。曹操より二十八も年下だし、玄徳とくらべても、二十二も若い当主である。
それと、南方は、天産物や交通にめぐまれてゐるので期せずして、人と知識はこゝに集まつた。文化、産業、ひいては軍需、政治などの機能が活潑な所以である。
時。——建安の七年頃だつた。——すなはち孔明出廬のときより溯(さかのぼ)ること六年前である。
美しい一艘の官船が檣頭(シヤウトウ)に許都政府の旗をか溌げて、揚子江を下つて来た。
中央からの使者であつた。
使者の一行は、呉会の賓館にはいつて、のち城中に登り、曹操の旨をつたへて、
「まだ御幼少にゐらせられる由ですが、孫閣下の御長男を、このたび都へ召されることになりました。朝廷において御教育申しあげ成人の後は、官人となされたいお心からです。——もちろん帝の有難い思召(おぼしめし)も多分にあることで」
と、申し入れた。
ことばの上から見ると、非常な光栄のやうであるが、云ふ迄(まで)もなく、これは人質を求めてゐるのである。
呉の方でも、そこは知れきつてゐることだが、恭しく恩命を謝して、
「いづれ、一門評議のうへ、あらためて」
と、答へて、問題の延引策を取つてゐた。
その後も、度々、長子を上洛(のぼら)せよと、曹操のはうから催促が来る。朝廷を擁してゐるだけに、彼の命は、すでに彼の命にとゞまらない絶対権をおびてゐた。
「母君。いかゞしたものでせう」
孫権はつひに、老母の呉夫人の耳へも入れた。
呉夫人は、
「あなたにはもう良い臣下がたくさんあるはずです。なぜこんな時こそ、諸方の臣を招いて衆智に訊いてみないのか」
と云つた。
考へてみると、問題は、子ども一人のことではない。質子(チシ)を拒めば、当然、曹操とは敵国になる。
そこで、呉会の賓館に、大会議をひらいた。
当時、呉下の智能はほとんど一堂に集まつたといつていゝ。
張昭、張絋、周瑜、魯粛(ロシユク)などの宿将をはじめとして、
彭城(ボウジヤウ)の曼才(マンサイ)、会稽(クワイケイ)の徳潤(トクジユン)、沛県(ハイケン)の敬文(ケイブン)、汝南(ジヨナン)の徳枢(トクスウ)、呉郡の休穆(キウボク)、また公紀(公紀)、烏亭(ウテイ)の孔休(コウキウ)など。
かの水鏡先生が、孔明と並び称して——伏龍、鳳雛といつた——その鳳雛とは、襄陽の龐統のことだが、その龐統も見えてゐる。
そのほか、汝陽(ジヨヤウ)の呂蒙(リヨモウ)とか、呉郡の陸遜(リクソン)とか、瑯琊(ラウヤ)の徐盛(ジヨセイ)とか——実に人材雲のごとしで、呉の旺(さかん)なことも、故なきではないと思はせられた。
「いま曹操が、呉に人質を求めて来たのは、諸侯の例に依るものである。質子を出すは、曹操に服従を誓ふものであり、それを拒むことは、即(すなはち)敵対の表示になる。いまや呉は重大な岐路に立ち至つた。いかにせばよいか、どうか、各位、忌憚なく御意見を吐露していただきたい」
張昭が議長格として、まづ席を起(た)ち、全員へかう発言を求めた。
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