吉川英治『三国志(新聞連載版)』(595)出廬(三)
昭和16年(1941)8月24日(日)付掲載(8月23日(土)配達)
ターミナルページはこちら(外部サービス「note」にリンク)
前回はこちら → 出廬(二)
***************************************
至誠は人をうごかさずに措(お)かない。玄徳は天下の為に泣くのであつた。その涙は一箇のためや、小さい私情に流したものではない。
「……」
孔明は、沈思してゐるふうだつたが、やがて唇(くち)を開くと、静に、しかし力づよい語韻で云つた。
「いや、お心のほどよく分りました。もし長くお見捨てなくば、不肖ながら、犬馬の労をとつて、共に微力を国事に尽(つく)しませう」
聞くと、玄徳は、
「えつ。では、それがしの聘(ヘイ)に応じて、御出廬くださいますか」
「何かの御縁でせう。将軍は私に巡り会ふべく諸州をさまよひ、私は将軍のお招きを辱(かたじけ)なうすべく今日まで田野の廬にかくれて陽(ひ)の目を待つてゐたのかも知れません」
「餘りにうれしくて、何やら夢のやうな心地がする」
玄徳は、関羽と張飛を呼んで仔細を語り、また供に持たせて来た金帛(キンパク)の礼物を、
「主従固めの印(しるし)ばかりに」
と、孔明へ贈つた。
孔明は辞して受けなかつたが、大賢(タイケン)を聘(ヘイ)すには礼儀もある。自分の志ばかりの物だからといはれて、
「では、有難く頂きませう」
と、家弟の諸葛均にそれを収めさせた。
孔明は、それと共に、弟の均へ、かう云ひふくめた。
「たいして才能もないこの身に対して、劉皇叔には、三顧の礼をつくし、且(か)つ、過分な至嘱をもつて、自分を聘せられた。性来の懦夫(ダフ)も起(た)たざるを得ぬではないか。——兄はたゞ今より即ち皇叔に附随して新野の城へ赴(ゆ)くであらう。汝は、嫂(あによめ)と睦(いつく)しみ、草廬(サウロ)をまもつて、天の時をたのしむがよい。——もし幸に、功成り名をとげる日もあれば、兄も亦(また)こゝへ帰つて来るであらう」
「はい。……その日の来るのを楽しみに、留守をしてをります」
均は、つゝしんで、兄の旨(むね)を領諾した。
その夜、玄徳は、こゝに一泊し、翌る日、駒を並べて、草庵を立つた。
かくて岡を降つて来ると——前の夜にこの趣きを供の者が新野に告げに行つたとみえて、——迎への車が村まで来てゐた。
玄徳は孔明とひとつ車に乗り、新野の城内へ帰る途中も、親しげに語り合つてゐた。
このとき孔明は二十七歳。
劉備玄徳は四十七であつた。
新野に帰つてからも、ふたりは寝るにも、室を共にし、食事をするにも、卓をべつにした事がない。
昼夜、天下を論じ、人物を評し、史を按(アン)じ、令を工夫してゐた。
孔明が、新野の兵力を視(み)ると、わづか数千の兵しかない。財力も極めて乏しい。そこで劉備にすゝめた。
「荊州は、人口が少(すくな)いのでなく、実は戸籍に載つてゐる人間が少いのです。ですから、劉表にすゝめて、戸簿を整理し、遊民を簿冊に入れて、非常の際は、すぐ兵籍に加へ得るやうにしなければいけません」
と云つた。
また自分が、保券(ホケン)の證人となつて、南陽の富豪(フガウ)大姓(タイセイ)黽(コフ)氏から、銭(ぜに)千万貫を借りうけ、これをひそかに劉備の軍資金にまはして、その内容を強化した。
とまれ、孔明の家〔がら〕といふものは、その叔父だつた人といひ、また現在呉に仕へてゐる長兄の諸葛瑾といひ、彼の妻黄氏の実家といひ、当時の名門にちがひなかつた。しかも、孔明の誠実と真摯な人格だけは、誰にも認められてゐたので——彼を帷幕(ヰバク)に加へた玄徳は——同時に彼のこの大きな背景と、他方重い信用をも、併(あは)せて味方にしたわけである。
遠大なる「天下三分の計」なるものは、もちろん玄徳と孔明のふたりだけが胸に秘してゐる大策で、当初はおもむろに、かうしてその内容の充実をはかりながら、北支・中支のうごき、また、江西・江南の時の流れを、極めて慎重にながめてゐたのであつた。
***************************************
次回 → 呉の情熱(一)(2025年8月25日(月)18時配信)
なお、日曜日については夕刊が休刊のため、配信はありません。

