吉川英治『三国志(新聞連載版)』(594)出廬(二)
昭和16年(1941)8月23日(土)付掲載(8月22日(金)配達)
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孔明の力説するところは、平常の彼の持論たる
=支那三分の計=であつた。
一体、わが大陸は広すぎる。故に、常にどこかで騒乱があり、一波万波をよび、全土の禍(わざはひ)となる。
これを統一するは容易でない。いはんや、今日に於(おい)てはである。
いま、北に曹操があり、南に孫権ありとするも、荊州、益州の西蜀(セイシヨク)五十四州は、まだ定まつてゐない。
ちと、遅(おそ)蒔(ま)きながら、起つならば、この地方しかない。
北に拠つた曹操は、すなはち天の時を得たものであり、南の孫権は、地の利を占めてゐるといへよう。将軍はよろしく人の和をもつて、それに鼎足(テイソク)の象(かたち)をとり、以(もつ)て、天下三分の大気運を興すべきである——と、孔明は説くのであつた。
玄徳は、思はず膝を打つて、
「先生の所説を伺ひ、何かにはかに、雲霧をひらいて、この大陸の隈(くま)なき果(はて)まで、一望に大観されて来たやうな心地がします。益州の精兵を養つて、秦川(シンセン)に出る。噫(あゝ)、今までは、夢想もしてゐなかつた……」と、その眸は、将来の希望と理想に、はや燃えるやうだつた。
この時、孔明は、童子を呼んで、
「書庫にあるあの大きな軸を持つて来て、御覧に入れよ」
と、命じた。
やがて童子は、自分の背丈(せい)よりも長い一軸を抱へて来て、壁へ懸けた。
西蜀五十四州の地図である。
それを指して、
「どうです、天地の大は」
と、孔明は、世上に血まなことなつてゐる人々の、瞳孔の小さゝを嗤(わら)つた。
——が、玄徳は、こゝに唯(たゞ)ひとつの〔ためらひ〕を抱(いだ)いた。それは、
「荊州の劉表といひ、益州の劉璋といひ、いづれも、自分と同じ漢室の宗親ですから、その国を奪ふにしのびません。いはゆる同族相〔せめぐ〕の誹(そし)りも、まぬがれますまい」
といふ点であつた。
孔明の答は、それに対して、頗(すこぶ)る明確なものだつた。
「御心配には及びません」
と、彼は断じるのである。
「劉表の寿命は、早晩、おのづから尽(つき)るでせう。かれの病(やまひ)はかなり篤いと、襄陽のさる医家から、耳にしてゐます。固疾(コシツ)が無くても、すでに年齢(とし)が年齢(とし)ではありませんか。その子たちは、これ亦(また)、云ふに足りません。一方、荊州(ママ)の劉璋は、なほ健在なりとはいへ、その国政の紊(みだ)れ、人民の苦しみ、誰か、それを正すを、仁義無しといひませう。むしろ、さういふ塗炭の苦しみを除いて、民土に福利と希望を与へてやるこそ、将軍の御使命ではありませんか。——然(しか)らずして、あなたが、天下に呼号し、魏・呉を向ふにまはして、鼎立(テイリツ)を計る意義がどこにありまするか」
一言の下(もと)に、玄徳は心服して、その蒙(モウ)を謝し、
「いや、よく分りました。思ふに、愚夫玄徳の考へは、事(こと)毎(ごと)に、大義と小義とを、混同してゐる所から起るものらしい。豁然(クワツゼン)と、いま悟られるものがあります」
「総じて、皆(みな)人のもつてゐる弱点です。将軍のみではありません」
「ねがはくば、どうか、朝夕(テウセキ)帷幕(ヰバク)にあつて、遠慮なく、この愚夫をお教へ下さい」
「いや」
と、孔明は、急にことばを更(か)へて云つた。
「今日、いさゝか所信を述べたのは、先頃からの失礼を詫びる寸志のみです。——朝夕お側にゐるわけにはゆきません。自分はやはり分を守つて、こゝに晴耕雨読していたい」
「先生が起(た)たれなければ、つひに漢の天下は絶え果てませう。ぜひなきこと哉(かな)」
と、玄徳は落涙した。
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次回 → 出廬(三)(2025年8月23日(土)18時配信)

