吉川英治『三国志(新聞連載版)』(593)出廬(一)
昭和16年(1941)8月22日(金)付掲載(8月21日(木)配達)
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十年語り合つても理解し得ない人と人もあるし、一夕(イツセキ)の間に百年の知己となる人と人もある。
玄徳と孔明とは、お互ひに、一見旧知のごとき情を抱いた。いはゆる意気相許したといふものであらう。
孔明は、やがて云つた。
「もし将軍が、おことばの如く、真に私のやうな者の愚論でもお咎(とが)めなく、聴いて下さると仰つしやるなら、いささか小子(セウシ)にも所見が無いわけでもありませんが……」
「おゝ。ねがはくば、忌憚なく、この際の方策を披瀝(ヒレキ)したまへ」
と、玄徳は、襟を正す。
「漢室の衰兆、蔽(おほ)ひ難しと見るや、姦臣輩出、内外を紊(みだ)し、主上はつひに、洛陽を捨て、長安をのがれ給ひ、玉車に塵(ちり)を蒙(かうむ)ること二度、しかもわれ等、草莽の微臣どもは、憂へども力及ばず、逆徒の猖獗(シヤウケツ)にまかせて現状に至る——といふ状態です。たゞ、ただ今も失はないのは、皎々(カウ/\)一片の赤心のみ。先生、この時代に処する計策は何としますか」
孔明は、曰(い)ふ。
「されば。——董卓の変このかた、大小の豪傑は、実に数へきれぬほど、輩出してをります。わけても河北の袁紹などは、そのうちでも強大な最有力であつたでせう。——ところが、彼よりも遙(はるか)に実力もなければ年歯も若い曹操に倒されました」
「弱者が却(かへ)つて強者を仆(たふ)す。これは、天の時でせうか。地の利にありませうか」
「人の力——思想、経営、作戦、人望、あらゆる人の力に依るところも多大です。その曹操は、いまや中原(チウゲン)に臨んで、天子をさしはさみ、諸侯に令して、軍、政二つながら完(まつた)きを得、勢ひ旭日のごときものがあり、これと鉾を争ふことは、けだし容易ではありません。——いや。もう今日(こんにち)となつては、彼と争ふことは出来ないといつても過言ではありますまい」
「……噫(あゝ)。時はすでに、去つたでせうか」
「いや。猶(なほ)こゝで、江南から江東地方を観(み)る要があります。こゝは孫権の地で、呉主すでに三(サン)世(セ)を歴(けみ)してをり、国は嶮岨(ケンソ)で、海山の産に富み、人民は悦服して、賢能の臣下多く、地盤まつたく定まつてをります。——故に、呉の力は、それを外交的に自己の力とする事は不可能ではないにしても、これを敗つて奪(と)ることはできません」
「むゝ。いかにも」
「——かうみてまゐると、いまや天下は、曹操と孫権とに二分されて、南北いづれへも驥足(キソク)を伸ばすことができないやうに考へられますが……然(しか)しです……唯(たゞ)こゝにまだ両者の勢力の何(いづ)れにも属してゐない所があります。——それがこの荊州です。又、益州(エキシウ)です」
「おゝ」
「荊州の地たるや、寔(まこと)に、武を養ひ、文を興すに足ります。四道、交通の要衝にあたり、南方とは、貿易を営むの利もあり、北方からも、よく資源を求め得るし、いはゆる天府の地ともいひませうか。——加ふるに、今、あなたにとつて、又となき僥倖を天が授けてゐるといへる理由は——この荊州の国主劉表が優柔不断で、すでに老病の人たる上に、その子(こ)劉琦(リウキ)、劉琮(リウソウ)も、凡庸頼むに足りないものばかりです。——益州(四川省)はどうかといへば、要害堅固で、長江の深流、万山のふところには、沃野広く、こゝも将来を約されてゐる地方ですが、国主(コクシユ)劉璋(リウシヤウ)は、至つて時代に晦(くら)く、性質もよくありません。妖教(エウケウ)跋扈(バツコ)し、人民は悪政にうめき、みな明君の出現を渇望してをります。……さあ、こゝです。この荊州に起り、益州を討ち、両州を跨有(コイウ)して、天下に臨まんか、初めて曹操とも対立することができませう。呉とも和戦両様の構へで外交することが可能です。——さらに、竿頭(カントウ)一歩、漢室の復興といふ希望も、早、痴人の夢ではありません。その実現を期することができる……と、私は信じまする」
孔明は、細論して餘すところなかつた。斯(か)くその抱負を人に語つたのは、恐らく今日が初めてゞあらう。
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次回 → 出廬(二)(2025年8月22日(金)18時配信)

