吉川英治『三国志(新聞連載版)』(592)立春大吉(三)
昭和16年(1941)8月21日(木)付掲載(8月20日(水)配達)
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「なんで早く告げなかつたか」
孔明は、童子へ云ふと、つと、後堂へ入つて行つた。口を嗽(すゝ)ぎ、髪をなで、なほ、衣服や冠もあらためて、ふたゝび出て来ると
「失礼しました」
と、謹んで、客を迎へ、なほかう言つて詫びた。
「一睡のうちに、かゝる神雲が、茅屋(バウヲク)の廂下(シヤウカ)に降りてゐようなどゝは、夢にも覚えず、まことに、無礼な態(テイ)をお目にかけました。どうか、悪しからず」
玄徳は、たえず微笑をもつて、悠揚と、座に着きながら、
「何の、神雲は、この家に常に漂ふもの。わたくしは、漢室の鄙徒(ヒト)、涿郡の愚夫。まあ、そんな者でしかありません。先生の大名は、耳に久しく、先生の神韻(シンヰン)縹渺(ベウベウ)たるおすがたには、今日、初めて接する者です。どうかこの後は、よろしく御示教を」
「御謙遜でいたみ入る。自分こそ、南陽の一田夫。わけて、かくの如く、至つて懶惰(ランダ)な人間です。あとで、〔あいそ〕をお尽かしにならないやうに」
賓主は、座をわかつて、至極、打(うち)解けた容子である。
そこへ、童子が、茶を献じる。
孔明は、茶をすゝりながら、
「旧冬、雪の日に、お遺(のこ)しあつた御書簡を見て、恐縮しました。——そして将軍が民を憂ひ国を思ふ情の切なるものは、充分に拝察できましたが、如何せん、私はまだ若年、しかも菲才(ヒサイ)、御期待にこたへる力がないことを、たゞ/\遺憾に思ふばかりです」
「…………」
玄徳はまづ彼の語韻の清々(すが/\)しさに気づいた。低からず、高からず、強からず弱からず、一語々々に、何か香気のあるやうな響きがある。餘韻がある。
すがたは、坐してゐても、身長(みたけ)殊(こと)にすぐれて見え、身には水色の鶴氅(クワクシヤウ)を着、頭には綸巾(リンキン)をいたゞき、その面(おもて)は玉瑛(ギヨクエイ)のやうだつた。
譬(たと)へていへば眉に江山の秀をあつめ、胸に天地の機を蔵し、もの云へば、風ゆらぎ、袖を払へば、薫々、花のうごくか、嫋々(ジヤウ/\)竹そよぐか、と疑はれるばかりだつた。
「いや/\。あなたをよく知る司馬徽や徐庶のことばに、豈(あに)、過(あやま)りがありませうか。先生、愚夫玄徳のため、まげてお教へを示して下さい」
「司馬徽や徐庶は、世の高士ですが、自分はまつたく、有(あり)の儘(まゝ)な、一農夫でしかありません。何で、天下の政事(まつりごと)など、談じられませう。——将軍はおそらく玉を捨てて石を採るやうなお間違ひをなされてゐる」
「石を玉と見せようとしても〔だめ〕なやうに、玉を石と仰せられても、信じる者はありません。いま、先生は経世の奇才、救民の天質を備へながら、深く身をかくし、若年におはしながら、早くも山林に隠操をお求めになるなどとは——失礼ながら、忠孝の道に背(そむ)きませう。玄徳は惜(をし)まずにゐられません」
「それは、どういふわけですか」
「国みだれ、民安からぬ日は、孔子でさへも民衆の中に立ち交じり、諸国を教化して歩いたではありませんか。今日は、孔子の時代よりも、もつと痛切な国患の秋(とき)です。ひとり廬に籠(こも)つて、一身の安きを計つてゐていゝでせうか。——なるほど、こんな時代に、世の中へ出てゆけば、忽ち、俗衆と同視せられ、毀誉褒貶(キヨホウヘン)の口の端(は)にかかつて、身も名も汚(けが)されることは知れきつてゐますが——それをしも、忍んでするのが、真に国事に尽すといふことではありませんか。忠義も孝道も、山林幽谷のものではありますまい。——先生、どうか胸をひらいて、御本心を語つてください」
再拝、慇懃(インギン)、態度は礼を極めてゐるが、玄徳の眼(まなこ)には、相手へ〔つめ〕寄るやうな情熱と、吐いて怯(ひる)まない信念の語気とを持つてゐた。
「…………」
孔明は、細くふさいでゐた睫毛(まつげ)を、こゝろもち開いて、静かな眸で、その人の容子をながめてゐた。
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