吉川英治『三国志(新聞連載版)』(591)立春大吉(二)
昭和16年(1941)8月20日(水)付掲載(8月19日(火)配達)
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柴門(サイモン)を入つて、園を少しすゝむと、又、傍(かたは)らに風雅な内門(ナイモン)が見える。
いつもは開いてゐるそこの木戸が、今日のみは閉まつてゐた。ほとほと訪(おとづ)れて叩くと、墻(かき)の梅が繽紛(ヒンプン)とこぼれ落ちてくる。
「どなたですか」
内から開けて、顔を出したのは、いつも取次に出る童子だつた。
玄徳は、笑顔をたゝへ、
「おゝ仙童。度々労を煩(わづら)はして、大儀ながら、先生に報じくれぬか。新野の玄徳が参つたと」
すると童子も、けふは日頃とちがつて、ことばつき迄(まで)丁寧に、
「はい。先生は家においでなさいますが、今草堂で午睡(ひるね)していらつしやいます。まだお眼醒めになりませんが」
「お午睡(ひるね)中か。……では、そのままにしておいて下さい」
そして関羽と張飛に、
「そち達は、内門の外に控へてをれ。——お眼醒めになるまでしばしお待ちしよう」
と、独り静かに入つて行つた。
草堂の周りは早春の光和やかに幽雅な風色につゝまれてゐる。ふと、堂上を見れば、几席(キセキ)のうへに暢々(のび/\)と安臥してゐる一箇の人がある。
これなん、孔明その人ならんと、玄徳は階下に立ち、叉手(サシユ)して、彼が午睡(ひるね)のさめるのを待つてゐた。
白い、小(こ)蝶(テフ)が、牀(シヤウ)のあたりにとまつてゐたが、やがて書斎の窓の下へ舞つてゆく。
中天にあつた陽(ひ)は、書堂の壁を、一寸二寸と陰つて来た。——玄徳は倦(う)まず動かず、なほ凝然と、醒める人を待つてゐた。
「あ——つ。眠くなつた。家兄(このかみ)はいつたい何(ど)うしたんだい」
かう大(おほ)欠伸(あくび)を放つて、無作法に云ふ声が、墻(かき)の外で聞えた。あまり長いので退屈して来た張飛らしい。
「……おや。家兄(このかみ)は、階下に佇(た)つた儘(まゝ)ぢやないか」
張飛は、墻の破れ目から、中を覗(のぞ)きこんでゐたが、忽ち、面(おもて)に朱をそゝいで、関羽へ喰つてかゝるやうに云つた。
「ふざけた真似をしてゐやがる。まあ、中を窺(うかゞ)つてみろ。われわれの主君を、一刻餘りも階下に立たせておいた儘(まゝ)、孔明は牀の上で、悠悠と午睡(ひるね)してゐやがる。……何たる無礼、傲慢、もう勘辨相ならぬ」
「叱(シツ)。叱つ……」
関羽は、また彼の虎髯(とらひげ)が、逆立ちかけて来たのを見て、眼で抑へた。
「墻(かき)の内へ聞えるではないか。静かに、もう暫く、容子を見てゐろ」
「いや、聞えたつてかまはん。あの似非(えせ)君子が、起(おき)るか起(おき)ないか、試しに、この家へ火を放(つ)けてみるんだ」
「ばかな真似をするな」
「いゝよ。離せ」
「また悪い癖を出すか。左様な無茶をすると、貴様の髯に火を放けるぞ」
漸く宥(なだ)めてゐるうちにも、書窓の廂(ひさし)に、陽は遅々と傾きかけながら、堂上の人の眠りは、いつ醒めるとも見えなかつた。
「……」
ふと、孔明は寝がへりを打つた。
起(おき)るかと見てゐると、また、その儘(まゝ)、壁のはうへ向つて、昏々と眠つてしまふ。
童子が側へ寄つて、呼び起さうとするのを、玄徳は階下から、黙つて、首を振つてみせた。
そして又、半刻ほど経つた。
すると、寝てゐた人は、漸く眼を清(さ)まし、身を起しながら、低声微吟して曰(い)ふらく、
大夢(タイム)誰(たれ)カ先(ま)ヅ醒(さむ)
平生我レ自ラ知ル
草堂ニ春睡足(た)ルテ
窓外ニ日ハ遅々タリ
吟じ了(をは)ると、孔明は、身をひるがへして、几席(キセキ)を離れた。
「童子、童子」
「はい」
「たれか、客が見えたのではないか。そこらに人の気〔はい〕がするが」
「お見えです、劉皇叔——新野の将軍が、もう久しいこと、階下に佇(た)つて、お待ちになつてをられます」
「……劉皇叔が」
孔明は切れの長い眼を、しづかに玄徳の方へ向けた。
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