吉川英治『三国志(新聞連載版)』(585)雪千丈(一)
昭和16年(1941)8月13日(水)付掲載(8月12日(火)配達)
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一行が、隆中の村落に近づいたころは、天地の物、悉(こと/゛\)く真つ白になつてゐた。
歩一歩と、供の者の藁沓(わらぐつ)は重くなり、馬の蹄(ひづめ)を埋めた。
白風(ビヤクフウ)は衣を撲ち、馬の息は凍り人々の睫毛(まつげ)はみな氷柱(つらゝ)になつた。
「あゝ、途方もない寒さだ。——馬鹿げてゐるわい」
張飛は、顔を顰(しか)めながら、雪風の中で聞えよがしに呟いてゐたが、玄徳のそばへ寄つて、又かう云つた。
「家兄(このかみ)、家兄。いゝ加減にしようぢやありませんか、軍(いくさ)もせず、こんな思ひを忍んで、無益な人間を尋ねて一体どうするんです? しばしそこらの民家へ立ち寄つて、寒気をしのぎ、新野へ引き返されては如何ですか」
聞くと、玄徳は、
「ばかな事を申せ」
と、叱つて、
「おまへは、厭(いや)か、寒いか」
と、常になく烈(はげ)しい眉を雪風(セツプウ)に曝(さら)しながら云つた。張飛も負けずに、赤い面(つら)を膨(ふく)らせて、
「戦(いくさ)をするなら、死ぬのも厭(いと)ひはしないが、こんな苦労は意味がない。何の為に、こんな馬鹿げた労苦をしてゆくのか、誰にだつて分りやしません」
「予の訪(と)ふ孔明に対し、予の熱情と慇懃(インギン)を知らしめんためである」
「それは、家兄(このかみ)だけの独り合点といふものでさ。冗談でせう。こんな大雪の日に、どや/\客に来られたひには、先だつて大迷惑する」
「——誰カ知ラン千丈ノ雪。おまへは黙つて従(つ)いて来い。また、歩くのが嫌なら一人で新野へ帰れつ」
もう村の中らしい。道の両側、ところ/゛\に家が見える。雪に埋(うづ)もれた土の窓から、土民の女房が眼をまろくして一行をながめてゐた。また貧しい煙の這(は)ふ壁の奥から嬰児(あかご)の声が道へ聞えて来る。
かういふ寒村の窮民を見ると、玄徳は、自分の故郷涿県の田舎と、その頃の貧乏生活を思ひ出す……。同時に、この地上に満ち満ちてゐる幾億の貧乏人の宿命を思ひやらずにゐられない。
彼はそこに、自分の志に大きな意義と信念を見出すのであつた。けふばかりではない。二十年来のことである。
壮士ノ高名(コウミヤウ)(ママ)、尚(なほ)未(いま)ダ成ラズ
嗚呼久シク、陽春ニ遇(あ)ハズ
君見ズヤ
東海ノ老叟(ロウサウ)(ママ)荊榛(ケイシン)ヲ辞ス
石橋(セキキヤウ)(ママ)ノ壮士(サウシ)誰(たれ)カヨク伸ビン
広施(クワウシ)三百六十釣
風雅遂ニ文王ト親シ
八百ノ諸侯、期セズシテ会ス
黄龍舟ヲ負ウテ孟津(モウシン)(ママ)ヲ渉(わた)ル……
何処だらう?
何者が歌ふのであらう?
凛々、心腸をしぼるばかり、高唱して歇(や)まない者がある。
「はて。あの声は」
玄徳は思はず駒をとめた。
道の雪、降る雪、そこらの屋根の雪が、白毫(ビヤクガウ)の旋風(つむじ)となつて眼をさへぎる。——ふと、傍(かたは)らを見ると、傾いた土の家の門(かど)に、一詩を書いた聯(レン)と、居酒屋の〔しるし〕の小旗が立つてゐた。
歌ふ声は、その中から聞えてくるのだつた。錆(さび)のある声調と、血のかよつてゐる意気が聞きとれる。
牧野(ボクヤ)ノ一戦、血、杵(きね)ヲ漂ハス
朝歌一旦、紂君ヲ誅ス
又見ズヤ
高陽(カウヤウ)ノ酒徒、草中ニ起(おこ)ル
長揖(チヤウイフ)山中(サンチウ)隆準公(リウセツコウ)
高ク大覇(タイハ)ヲ談ジテ人耳(ジンジ)ヲ驚カス
二女足を濯(あら)ウテ何(いづ)レノ賢(ケン)ニ逢ハン……
玄徳は、その儘(まゝ)、雪に埋もれかけてゆくのも忘れて、凝(じつ)と、聞き惚(と)れてゐた。
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次回 → 雪千丈(二)(2025年8月13日(水)18時配信)

