吉川英治『三国志(新聞連載版)』(584)孔明を訪(と)ふ(五)
昭和16年(1941)8月12日(火)付掲載(8月11日(月)配達)
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玄徳は終始、慎んで聞いてゐたが、崔州平のことばが終ると、
「御高教、寔(まこと)にかたじけない」
と、ふかく謝して、
「——時に、今日は思ひがけないお教へをうけ、一つの幸(さいはひ)であつたが、たゞ孔明に会へずに帰ることだけは、何とも残念に心得る。もしや、彼の行く先を、御存じあるまいか」
と、話を戻してたづねた。
「いや実は、私もこれから孔明の家を訪ねようと思つて、これまで来たところです。留守とあれば、自分も帰るしかありません」
と、崔州平は腰をあげた。
玄徳も共に起(た)ち上がりながら、
「如何です、玄徳と共に、新野へ来ませんか。なほいろ/\貴公について、善言を伺ひたいと思ふが」
と、誘つた。
崔州平は、かぶりを振つて、
「山野の一儒生、もとより世上に名利を求める気はありません。御縁があれば又会ひませう」
と、長揖(チヤウイフ)して立ち去つた。
玄徳も馬に乗つて、やがて臥龍の岡をうしろに帰つた。
途中、関羽は、玄徳のそばへ駒を寄せてそつと訊ねた。
「最前の隠士が云つた治乱の説を君には真理と思し召すか?」
「——否(いな)」
玄徳は、にことして答へた。
「彼の曰(い)ふところは、彼等の中の真理であつて、万民俗衆の真理ではない。この地上の全面を占めるものは億兆の民衆で、隠士高士のごときは、何人と数へられる程しかをるまい。……さういふ少数の中だけでもてあそぶ真理なら、どんな理想でも唱へてゐられよう」
「それ程、治乱の理を、明(あきら)かに御承知でゐながら、何で長々と、崔州平の言などを慎んで聞いて居られたのですか」
「もしや?……一言半句でも、そのうちに、世を救ひ万民の苦悩に通じることばでもあらうかと、飽(あく)まで語らせておいたのだが」
「つひに、ありませんでしたな」
「ない。……無かつた。……それを聞かせてくれる人にわしは渇してゐる。まだ見ぬ孔明に自分が求めて熄(や)まないのも、その声だ。その真理だ」
かくて、その日は、むなしく暮れたが、新野に帰城してから、数日の後、玄徳はまた人をやつて、孔明の在否を窺(うかゞ)はせてゐた。
やがて、その者から報(し)らせて来た。こゝ一両日は、たしかに孔明は家に帰つてゐるやうです。すぐお出ましあれば、こんどこそ草廬(サウロ)に籠つてをりませう——と。
「さらば、今日(けふ)にも」
と、玄徳は急に、馬の具(そな)へや供の支度を命じた。
張飛は、馬の側(そば)へ来て、やゝ不平さうに、鞍上(アンジヤウ)の玄徳へ云つた。
「いやしい田夫の家へ、御自身で何度も出かけるなどは、領民のてまへも、変なものでせう。使をやつて、孔明を城へ呼び寄せてはどんなものですか」
「礼に缺ける。そんなことで、どうして、彼の如き稀世の賢人を、わが門へ迎へられよう」
「孔明とやら、いかに学者か賢人か知らぬが、多寡が狭隘(ケフアイ)な書斎と十(ジツ)畝(せ)の畑(はた)しか知らない奴、実社会はまたちがふ。もしお高くとまつて、来るの来ないのと云つたら、張飛が提(ひつさ)げて参るとも、何の造作はあるまいに」
「みづから門を閉ぢるものだ。書物をひらいて、すこし孟子の言葉でも嚙みしめてみるがいゝ」
この前と同じぐらゐな供の数だつた。城門を出て、新野の郊外へかゝる頃から、霏々(ヒヽ)として、灰色の空から雪が降り出してきた。
ちやうど十二月の中旬(なかば)である。朔風(サクフウ)は肌をさし、道はたちまち蔽(おほ)はれ、雪は烈(はげ)しくなるばかりだつた。
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次回 → 雪千丈(一)(2025年8月12日(火)18時配信)

