吉川英治『三国志(新聞連載版)』(582)孔明を訪(と)ふ(三)
昭和16年(1941)8月9日(土)付掲載(8月8日(金)配達)
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「先生の作と申すか」
「へい。先生の作つた謡(うた)ぢやと申しまする」
「その臥龍先生のお住居は、どの辺にあたるか」
「あれに見える山の南の、帯のやうな岡を、臥龍の岡と申しますだ。そこから少し低いところに、一叢(ひとむら)の林があつて、林の中に、柴の門、茅葺(かやぶき)の廬(いほり)がありますだよ」
農夫は、答へるだけを答へてしまふと、傍目(わきめ)もふらず、畑に屈(かゞ)んで働いてゐる。
「この辺の民は、百姓にゐたるまでどこか違つてゐる……」
玄徳は、左右の者に語りながら、また駒をすゝめて三、四里ほど来た。道はすでに、岡の裾にかかつてゐた。
冬の梢は、青空を透かして見せ、百禽(もゝどり)の声もよく澄みとひる。淙々(ソウ/\)とどこかに小さい滝の音がするかと思へば、颯々(サツ/\)と奏(かな)でゝゐる一幹(イツカン)の巨松に出会ふ。——坂道となり山陰となり渓橋(ケイキヤウ)となり、遠方此方(をちこち)の風景は迎接に遑(いとま)なく、かなり長い登りだが道の疲れも忘れてしまふ。
「おゝ、あれらしい」
関羽は、指さして、玄徳をふり向いた。玄徳はうなづいて、はや駒をおりかけてゐる。
清楚な編竹(あみだけ)の墻(かき)を繞(めぐ)らした柴門(サイモン)のほとりに、ひとりの童子が猿と戯れてゐた。小猿は見つけない人馬を見て、にはかに声を放ち、墻の上から樹の枝へ攀(よ)ぢて、猶(なほ)もキイキイ叫びつゞける。
玄徳は、歩み寄つて、
「童子。孔明先生のお住居はこちらであるか」と、たづねた。
童子は不愛想に、
「うん」
と、一つ頷(うなづ)いたきり、後(あと)に続く関羽、張飛などの姿へ、棗(なつめ)のやうな眼をみはつてゐる。
「大儀ながら、廬中へ取次いでもらひたい。自分は、漢の左将軍、宜城亭侯(ギジヤウテイコウ)、領(リヤウ)は豫州の牧、新野皇叔(シンヤコウシユク)劉備、字(あざな)は玄徳といふもの。先生に眉(ま)見(み)えんため、みづからこれへ参つたのであるが」
「待つておくれ」
童子は、ふいに遮つて云つた。
「——そんな長い名は、覚えきれやしない。もう一度云つてください」
「なる程。これはわしが悪かつた。たゞ、新野の劉備が来ました——と、さう伝へてくれゝばよい」
「お生憎(あひにく)さま。先生は今朝早天に出たまゝ、まだ帰つてをりません」
「何処(いづこ)へ御出でなされたか」
「どこへお出かけやら、ちつとも分りません。——行雲(カウウン)踪蹟(ソウセキ)不定(さだまらず)——で」
「いつ頃、お帰りであらうか」
「さあ。時によると三五日。あるひは十数日。これも料(はか)り難しですね」
「…………」
玄徳は、落胆して、いかにも力を失つたやうに、惆悵(チウチヤウ)久しうして、なほ佇(たゝず)んでゐたが、さう聞くと、側(そば)から張飛が、
「居ないものは仕方がない。早々帰らうぢやありませんか」
と云つた。
関羽も共に、
「また他日、使でも立てゝ、在否を訊かせた上、改めてお越しあつてはいかゞです」
と、駒を寄せて促した。
孔明の帰つて来る迄(まで)は、そこに佇んででも居たいやうな玄徳であつたが、是非なく、童子に言(こと)伝(づ)てを頼んで悄然(セウゼン)、岡の道を降りて行つた。
秀雅にして高からぬ山。清澄にして深からぬ水。茂盛(モセイ)した松や竹林には、猿や鶴が遊んでゐる。玄徳は、こゝの山紫水明にも、うしろ髪を引かれてならなかつた。
すると、岡のふもとから身に青衣(せいい)をまとひ、頭に逍遥頭巾(セウエウヅキン)をいただいた人影が、杖を曳いて登つて来た。
近づいてみると、眉目清秀な高士である。どこか幽谷(ユウコク)の薫蘭(クンラン)といつた感じがする。玄徳は心のうちで、
(これなん、諸葛亮その人であらう)
と、思ひ、急に馬から降りて、五、六歩あるいた。
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