吉川英治『三国志(新聞連載版)』(581)孔明を訪(と)ふ(二)
昭和16年(1941)8月8日(金)付掲載(8月7日(木)配達)
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玄徳はなほ引きとめて、何かと話題を切らさなかつた。
「この荊州襄陽を中心として、どうしてこの地方には、多くの名士や賢人が集まつたものでせうか」
司馬徽は、杖を上げて、起ちかけたが、つい彼の向ける話題につり込まれて、
「それは偶然ではありますまい。むかし殷馗(インキ)というて、よく天文に通じてゐた者が、群星の分野を卜(ボク)して、この地かならず賢人の淵叢(ヱンソウ)たらん——と豫言したことは、今も土地の故老がよく覚えてゐることだが、要するに、こゝは大江の中流に位(くらゐ)し、蜀、魏、呉の三大陸の境界と、その中枢に位置してゐるため、時代の流は自らこゝに人材を寄せ、その人材は、過去と未来のあひだに静観して、静に学ぶもあり、大いに期するもあり、各々現在に処してゐるといふのが実相に近いところであらう」
「なるほど、おことばに依つて、自分の居る所も、明(あきら)かになつた気がします」
「——さうぢや、自分のゐる所——それを明かに知ることが、次へ踏み出す何より先の要意でなければならぬ。御身をこの地へ運んで来たものは、御身自体が意志したものでもなく、また他人が努めたものでもない。大きな自然の力——時の流れに漂はされて来た一漂泊者に過ぎん。けれどお身の止(とゞま)つた所には、天意か、偶然か、陽(ひ)に会つて開花を競はんとする陽春の気が鬱勃(ウツボツ)としてをる。こゝの土壌に潜むさういふものの生命力を、御辺は目に見ぬか、鼻に嗅(か)がぬか、血に感じられぬか」
「——感じます。それを感じると、脈々、自分の五体は、ものに疼(うづ)いて、居ても立つてもゐられなくなります」
「好々(よし/\)」
司馬徽は、呵々(カヽ)と笑つて、
「それさへ覚(さと)つておいであれば、あとは餘事のみ——やれ、長居いたした」
「先生、もう暫時、お説き下さい。実は近いうちに隆中の孔明を訪れたいと思つてゐますが——聞説(きくならく)、彼はみづから、自分を管仲楽毅に擬して、甚だ自重してゐると聞きますが、やゝ過分な矜持(キヨウジ)ではないでせうか。実際、彼にそれほどな素質がありませうか」
「否々(いな/\)。あの孔明が何でみだりに自己を過分に評価しよう。わしから云はせれば、周の世八百年を興した太公望(タイコウバウ)、或(あるひ)は、漢の創業四百年の基礎をたてた張子房(チヤウシバウ)に較(くら)べても決して劣るものではない」
司馬徽はさう云ひながら徐(おもむ)ろに階を下りて一礼し、なほ玄徳がとどめるのを一笑して、天を仰ぎ、
「——嗚呼(あゝ)、臥龍先生、ソノ主(シユ)ヲ得タリト雖(いへど)モ、惜(をし)イ哉(かな)、ソノ時ヲ得ズ!ソノ時ヲ得ズ!」
と、ふたゝび呵々大笑しながら、飄然(ヘウゼン)と立ち去つてしまつた。
玄徳は深く嘆じて、あの高士があれほどに激賞するからには、正しく深淵の蛟龍(カウリウ)。まことの隠君子にちがひない。一日もはやく孔明を尋ね、親しくその眉目に接したいと、左右の人々へくり返して喞(かこ)つた。
一日、漸く閑(カン)を得たので、玄徳は、関羽、張飛のほか、従者もわづか従へ、行装も質粗に、諸事美々しからぬを旨として、隆中へ赴いた。
静かな冬日和だつた。
道すがら田園の風景を愛(め)で、恵まれた閑日を吟愛し、漸く郊外の村道を幾里か歩いてゆくと、冬田の畦(あぜ)や、菜園のほとりで、百姓の男女が平和に謡(うた)つてゐた。
蒼天(おほぞら)は円(まる)い、まん円(まる)い
地上は狭い、碁盤(ごばん)の目のやうに。
世間はちやうど、黒い石、白い石
栄辱を争ひ、往来して戦ふ。
さかえる者は、安々たり
敗るゝものは、碌々(ロク/\)とあえ(ママ)ぐ。
こゝ南陽はべつの天地
高眠して臥すは誰(たれ)ぞ
誰ぞ、臥してまだ足らない
顔をしてゐるのは。
玄徳は馬をとめて、試みに、一農夫にたづねてみた。その謡(うた)は、誰(たれ)の作かと。
「はい、臥龍先生の謡でがす」
と、百姓はすぐ答へた。
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