吉川英治『三国志(新聞連載版)』(580)孔明を訪(と)ふ(一)
昭和16年(1941)8月7日(木)付掲載(8月6日(水)配達)
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徐庶に別れて後、玄徳は一時、何となく空虚(うつろ)だつた。
茫然と、幾日かを過したが、
「さうだ。孔明。——彼が別れる際に云ひ遺(のこ)した孔明を訪ねてみよう」
と、側臣を集めて、急に、その事に就(つい)て、人々の意見を徴してゐた。
ところへ、城門の番兵から、取次が来た。
「玄徳に会ひに来たと、その翁(おきな)は、ひどく気軽に云ふのですが……?」
と、取次は怪しむのであつた。
「どんな風采(フウサイ)の老翁か」
と、訊くと、
「峩(たか)い冠をいたゞいて、手に藜(あかざ)の杖をついてゐます。眉白く、皮膚は桃花のごとく、容貌何となく常人とも思はれません」
と、ある。
「さては、孔明ではないか」
と、推量する者があつた。——玄徳もそんな気がしたので、自身、内門まで出迎へに行つてみると、何ぞはからん、それは水鏡先生司馬徽であつた。
「おう、先生でしたか」
玄徳は歓んで、堂上に請(シヤウ)じ、その折の恩を謝したり、以後の無沙汰を詫びて、
「いちど、軍務のひまを見て、仙顔を拝したいと存じてゐたところ、さきにお訪ねをたまはつては、恐縮にたへません」
と、繰返して云つた。
司馬徽は、顔を振つて、
「なんの、わしの訪問(おとづれ)は、礼儀ではない。気(キ)紛(まぐ)れぢや。近頃、この所に、徐庶が仕へてをると聞き、一見せむと、町まで来たついでに立ち寄つたのぢやが」
「あゝ、徐庶ですか。——実は数日前に、この所を去りました」
「なに、また去つたと」
「田舎の老母が、曹操の手に囚(とら)はれ、その母より招きの手紙が参つたので」
「何、何。……囚はれの母から書簡が来たと。……それは解(げ)せん」
「先生、何を疑ひますか」
「徐庶の母なら、わしも知つとる。あの婦人は、世にいふ賢母ぢや。愚痴な手紙などよこして子を呼ぶやうな母ではない」
「では、偽書でしたらうか」
「怖(おそ)らくは然(しか)らん——。あゝ惜しいことをした。もし徐庶が行きさへしなければ、老母も無事だつたらうに、徐庶が行つては、老母もかならず生きてをるまい」
「実は、その徐庶が、暇(いとま)を乞うて去る折に、隆中の諸葛孔明なる人物をすゝめて行きましたが、何分、途上の別れぎわに、詳(つぶ)さな事も訊くいとまがありませんでしたが……先生には、よく御存じでせうか」
「は、は、は」と、司馬徽は笑ひ出して——
「己れは他国へ去るくせに、無用な言葉を吐いて、他人(ひと)に迷惑を遺(のこ)して行かなくてもよささうなものぢや。〔やくたい〕もない男かな」
「迷惑とは?」
「孔明にとつてぢやよ。また、わし等の道友にとつても、彼が仲間から抜けてはさびしい」
「お仲間の道友とは、いかなる方方ですか」
「博陵の崔州平、潁州の石広元(セキクワウゲン)、汝南の孟公威(マウコウヰ)、徐庶その他、十指に足らん」
「各々知名の士ですが、かつて孔明の名だけは、聞いてをりません」
「あれほど、名を出すのを厭(きら)ふ男はない。名を惜(をし)むこと、貧者が珠を持つたやうぢや」
「道友がたのお仲間で、孔明の学識は、高いはうですか、中くらゐですか」
「彼の学問は、高いも低いもない。たゞ大略を得てをる。——総(すべ)てに亙(わた)つて、彼はよく大略を摑(つか)み、よく通ぜざるはない」
と、云ひながら、杖を立てゝ、
「どれ……帰らうか」
と、つぶやいた。
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次回 → 孔明を訪ふ(二)(2025年8月7日(木)18時配信)

