吉川英治『三国志(新聞連載版)』(579)臥龍の岡(三)
昭和16年(1941)8月6日(水)付掲載(8月5日(火)配達)
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「御恩をふかく謝します——」と徐庶はまづ拝礼して、
「して、母はどこに居りませうか。願はくば、一刻も早く、遠路より来た愚子に対面をおゆるし下さい」
と、云つた。
曹操は、幾度も頷(うなづ)いて見せたが、
「お身の老母は、つねに程昱に守らせて、朝夕、何不自由なくさせてあるが、今日は御辺がこれに参るとのことに、彼方の一堂に迎へてある。後刻ゆるりと会ふもよし、またこれからは、長く側に仕へて、子たるの道をつくせ。予もまたそちの側(そば)に在つて、日々(ニチ/\)、有義な教へを聞きたい」
「丞相の慈念をかふむり、徐庶は愧感(キカン)に堪(た)へません」
「だが、御辺のやうな、孝心に篤い、そして達見高明の士が、なんで身を屈して玄徳などに仕へたのか」
「偶然なる一朝の縁でございませう。放浪のうち、ふと新野で拾ひ上げられたに過ぎません」
さりげなく、二、三の雑談を交して後、軈(やが)て、徐庶は曹操のゆるしを得て、奥の一堂にゐる老母のところへ会ひに行つた。
「あの内においでなされる」
と、案内の者は、指さしてすぐ戻つて行く。——徐庶は清らかな園の一方に見える一(ひと)棟(むね)を見るよりもう胸がいつぱいになつてゐた。彼は、そこの堂下に額(ぬか)づいて、
「母上!徐庶です。徐庶が参りました」
と、声をかけた。
すると、彼の老母は、さも意外さうに、わが子のすがたを見まもつて訊ねた。
「おやつ?元直ではないか。そなたは近頃、新野にあつて、劉玄徳さまに仕へてをると聞き、よそながら歓んでゐたものを。——なんでこれへ来やつたか?」
「えつ。不審(いぶか)しいことを仰つしやいます。母上よりのお手紙に接し、主君よりおいとまを乞うて、夜を日に継いでこれへ駈けつけて参りましたものを」
「何をうろたへて。……この母の胎(はら)から生れ出ながら、年三十有餘にもなつて、まだこの母が、そのやうな文(ふみ)を子に書く母か否かわからぬか」
「でも、……このお手紙は」
と、出発の前に、新野で受け取つた書簡を出してみせると、老母は、もつてのほか怒つて、顔の色まで変じ、
「これ!元直」
と、身を正して叱つた。
「そなたは、幼(いとけな)き頃から儒楽(ママ)ををさめ、長じては世上を流浪しやることも十数年、世上の艱苦(カンク)、人なかの辛苦も、みな生ける学びぞと、常にこの母は、身の孤独も思はず、たゞ/\そなたの修業の積むことのみ、陰で楽しみにしてゐたに——、このやうな偽文(にせぶみ)を受け取つて、その真偽も正さず、大切な御主君を捨てゝ来るとは何ごとか」
「あつ……では……それは母上のお筆ではありませんでしたか」
「孝に眼をあけてゐるつもりでも、忠には盲目(めしひ)。そちの修業は片目とみゆる。いま玄徳さまは、帝室の冑(チウ)たり、英才すぐれておはすのみか、民みなお慕ひ申しあげてをる。そのやうな君に召(めし)つかはれ、そちの大幸、母も誉れぞと、ひそかに忠義を祈つてゐたものを……ええ……匹夫のやうな」
と、身をふるはせて、よゝと泣いてゐたが、やがて黙然と、帳(とばり)の蔭へかくれたきり姿も見せなかつた。
徐庶も、慚愧(ザンキ)に打たれて、母の厳戒を心に嚙み、自身の不覚を悔い悩んで、共に、泣き伏したまゝ悩乱の面(おもて)も上げず俯(う)つ伏してゐたが、ふと帳(とばり)のうしろで、異様な声がしたので、愕然、駈け寄つてみると、老母はすでに自害して死んでゐた。
「母上つ……。母上つ」
徐庶は、冷たい母の空骸(なきがら)をかゝへて、男泣きにさけびながら、その場に昏絶してしまつた。
はや冬風のすさぶ中、許都郊外の南原(ナンゲン)に、立派な棺槨(クワンクワク)(墓地)が築かれた。——老母の死後、曹操が徐庶をなぐさめて贈つたものの一つである。
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