吉川英治『三国志(新聞連載版)』(578)臥龍の岡(二)
昭和16年(1941)8月5日(火)付掲載(8月4日(月)配達)
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童子は、茶を煮る。
客と主は、書斎のうちに、対話してゐた。
「秋も暮れますなあ」
徐庶がいふ。
孔明は、膝を抱いて、
「冬を待つばかりだ。すつかり薪(まき)も割つてある」
と、云つた。
徐庶は、いつ迄(まで)も、云ひ出せずにゐた。すると孔明のはうから、訊ねた。
「徐兄。けふのお越しは、何か用あり気らしいが、抑(そも)、何の為に、孔明の廬へお立ち寄りか」
「されば」
と、漸く、緒口(いとぐち)を得て、
「——実はまだ、先生にもお告げしてないが、拙者は先頃から、新野の劉玄徳に仕へてゐました」
「はあ。さうでしたか」
「ところが、田舎にのこしておいた老母が、曹操の部下に曳かれて、いまはひとり都に囚(とら)はれの身となつてゐる。……その老母より綿々と侘(わび)しさを便りして参つたので、やむなく、主君にお暇(いとま)をねがひ、これより許都へ上(のぼ)らうといふ途中なのです」
「それは、よい事ではないですか。身の仕官など、いつでも出来る。御老母をなぐさめておあげなさい」
「就(つい)てはです。——お別れに臨んで、この徐庶から折入つて、おねがひしておきたい儀があります。お聞き入れ賜はらぬか」
「まあ、仰つしやつてごらんなさい」
「ほかではありませんが、今日、御主君自身、遠く途中まで見送つて下されたが、その別れ際に、実は、平素から心服してゐるため、隆中の岡に、かゝる大賢人ありと、口を極めて、先生の大方を、御推薦しておいたわけです。——で、まことに御迷惑でせうが、やがて玄徳公からお沙汰のあつた節は、枉(ま)げても、召に応じていたゞきたい。かならず、お辞退のなきやうに、旧友の誼(よしみ)に縋(すが)つておねがひ申し上げる」
徐庶は、学歴や年齢からも、遙(はるか)に孔明よりは先輩だつたが、今では孔明を先生と称して、心から尊敬を払つてゐるのである。しかもこの事たるや、容易ならぬ問題でもあるし、一朝一夕に孔明が承諾しようとも考へられないので、衷情を面(おもて)にあらはして、なほ縷々(ルヽ)その間(カン)の経緯(いきさつ)やら自己の意見をも併せ陳(の)べた。
すると、終始、半眼に睫毛(まつげ)をふさいで、静に聞いてゐた孔明は、語気勃然と起(た)つて、
「徐兄。——御辺はこの孔明を、祭の犠牲(にへ)に供へようといふおつもりか」
さう云ひ捨てるやいな、袖を払つて、奥の室へかくれてしまつた。
徐庶は、はつと、色を変じた。
祭の犠牲(にへ)——
思ひ当ることがある。
むかし、某君(あるきみ)が、荘子(サウシ)を召抱へたいと思つて、使者をさしむけたところ、荘子は、その使に答へて曰(い)つたといふ。
(子(シ)よ、犠牲(いけにへ)になる牛を見ずや。手に錦鈴(キンレイ)を飾り、美食を飼はしてゐるが、曳いて大廟(タイベウ)の祭壇に供へられるときは、血をしぼられ、骨を解かれるではないか)
徐庶は、孔明のことばに、慚愧(ザンキ)した。もとより畏敬する友を牛として売る気などは、毛頭もたないが、折角の交友に、ふと、気まづいものを醸しただけでも、尠(すくな)からず後悔させられた。
「いつか詫(わび)る日もあらう」
彼はぜひなく席を去つた。外に出て見れば、黄昏(たそがれ)の空に落葉飄々と舞つて、はや冬近いことを想はせる。
泊りを重ねて、徐庶が、都へ着いたときは、まつたく冬になつてゐた。——建安十二年の十一月だつた。
すぐ相府に出て、着京の由を届けると、曹操は、荀彧、程昱のふたりをして、鄭重に迎へさせ、翌日、曹操自身、彼を引いて対面した。
「御辺が、徐庶元直か。老母は息災であるから、まづその儀は安心したがよいぞ」
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