吉川英治『三国志(新聞連載版)』(576)諸葛氏一家(六)
昭和16年(1941)8月2日(土)付掲載(8月1日(土)配達)
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彼の身丈(みたけ)は、人なみすぐれてゐた。肉はうすく、漢人特有な白皙(ハクセキ)長身であつた。
その長い膝を抱へて、居眠るごとく、或る日、孔明は友達の中にゐた。
彼を繞(めぐ)る道友たちは、各々、時局を談じ、将来の志を語りあつてゐた。
孔明は、微笑しながら、黙々とそれを聞いてゐたが、
「そうだ、君がたが、こぞつて官界へ出て行けば、きつと刺史(州の知事)か郡守(郡の長官、即ち太守)ぐらゐには登れるだらう」
と、云つた。
友の一名が、すぐ反問した、
「ぢやあ、君は。——君はどんなところまで成れるつもりか」
「僕か」
笑而不答(わらつてこたへず)——孔明はにや/\してゐたきりであつた。
彼の志は、そんな所にあるのではなかつた。官吏、学者、栄達の門、みな彼の志を入れるには窄(せま)かつた。
春秋の宰相(サイシヤウ)管仲(クワンチウ)、戦国の名将軍(メイシヤウグン)楽毅(ガツキ)、かうふたりを心に併せ持つて、ひそかに、
(わが文武の才幹は、正にこの二人に比すべし)
と、独り矜持(キヨウジ)を高くもつてゐたのである。
楽毅は春秋戦国の世に、燕(エン)の昭王(セウワウ)を佐(たす)けて、五国の兵馬を指揮し、斉(セイ)の七十餘城を陥したといふ武人。——また管仲は、斉の桓公(クワンコウ)を輔佐して、富国強兵政策をとり春秋列国のなかに、つひに覇を称(とな)へしめて、その主君桓公から、一にも仲父(チウフ)(管仲の称)二にも仲父と恃(たの)まれたほどな大政治家である。
いまは、時あたかも、春秋戦国の頃にも劣らぬ乱世ではないか。
若い孔明は、さう観てゐる。
管仲、楽毅、いま何処にありや!——と。
また彼は想ふ。
「自分を措(お)いてはない。不敏といへども、それに比すものは自分以外の誰が居よう」
不断の修養を怠らなかつた。
世を愛するために、身を愛した。世を思ふ為に、自分を励ました。
口にこそ出さないが、膝を抱へて、黙然、嘯(うそぶ)いてゐる若い孔明の眸にはさういふ気概が、潜(ひそ)んでゐた。
時にまた、彼は、家の裏の楽山へ登つて行つて、渺々(ベウ/\)際涯(サイガイ)なき大陸を終日ながめてゐた。
すでに、兄の瑾は呉に仕へ、その呉主孫権の勢ひは、南方に赫々たるものがある。
北雲の天は、相かはらず晦(くら)い。袁紹は死し、曹操の威は震雷してゐる。——が、果(はた)して、旧土の亡民は、心からその威に服してゐるかどうか。
益州——巴蜀の奥地は、なほまだ颱風(タイフウ)の圏外(そと)にあるかのごとく、茫々(バウ/\)の密雲にとざされてゐるが、長江の水は、そこから流れてくるものである。
水源、いつ迄(まで)、無事でゐよう。かならずや、群魚の銀鱗が、そこへ遡(さかのぼ)る日の近いことは、分りきつてゐる。
「あゝ、かう観てゐると、自分のゐる位置は、まさに呉、蜀、魏の三つに別れた地線の交叉(カウサ)してゐる真ん中にゐる。荊州はまさに大陸の中央である……が、こゝにいま誰が時代の中枢をつかんでゐるか。劉表はすでに、次代の人物ではなし、学林官海、ともに大器と見ゆるひともない。……突としてこゝに宇宙から降り立つ神人はないか。忽として、地から湧いて立つ英傑はないか」
やがて、日が暮れると、若い孔明は、梁甫(リヤウホ)の歌を微吟(ビギン)しながら、わが家の灯を見ながら山をおりて行く——。
歳月のながれは早い。いつか建安十二年、孔明は二十七歳となつてゐた。
劉備玄徳が、徐庶から彼のうはさを聞いて、その草廬を訪ふ日を心がけてゐたのは、実に、この年の秋もはや暮れなんとしてゐる頃であつたのである。
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