吉川英治『三国志(新聞連載版)』(575)諸葛氏一家(五)
昭和16年(1941)8月1日(金)付掲載(7月31日(木)配達)
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【前回迄の梗概】
◇…漢室の裔、劉備玄徳は経綸の才を抱きながら時運に恵まれず、関羽、張飛等の良臣を擁して、深夜の小城に屯してゐる。傘下の名軍師徐庶は、母が曹操に捕はれたことを知り、心ならずも玄徳と別れて母の許へ赴く。
◇…彼は別離に際して、隆中に諸葛孔明といふ賢人あり、君自ら親しく之を迎へよ、といひ残した。少時より世路の辛酸を舐めた孔明は弱冠、晴耕雨読の生活をしてゐる。
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隆中の彼の住居へ、或る日、友人の孟建が、ぶらりと訪ねて来て云つた。
「近日、故郷(くに)へ帰らうと思ふ。けふはお別れにやつて来た」
孔明は、さういふ先輩の面(おもて)を、しばらく無言で見まもつてゐたが、
「なぜ帰るのです?」
と、さも不審さうに訊(き)いた。
「なぜといふ事もないが、襄陽は餘りに平和すぎて、名門名族の士が、学問に遊んだり政治批評を楽んで生活してをるにはいゝかも知れんが、われわれ書生には適さない所だ。そのせゐか、近頃しきりと故郷の汝南が恋しくなつた。退屈病を癒しに帰らうと思ふのさ」
聞くと、孔明は、静に顔を横に振つて、
「こんな短い人生を、まだ半途も歩まないうちに、君はもう退屈してゐるのか。襄陽は平和すぎると云はれるが、いつたいこの無事が百年も続くと思つてゐるのかしら?——殊(こと)に、君の郷里たる中国(北支)こそ、旧来の門閥は多いし、官吏士大夫の候補者はうようよしてゐるから、何の背景もない新人を容れる餘地は少(すくな)い。むしろ南方の新天地に悠々時を待つべきではないかな」
と、云つて止めた。
孟建は孔明よりも年上だし、学問の先輩でもあつたが大いに啓蒙されて、
「いや、思ひ止(とゞ)まらう。なるほど君の云ふ通りだ。人間はすぐ眼前の状態だけに囚はれるからいかんな。——閑に居て動を観、無事に居て変に備へるのは難かしいね」
と、述懐して帰つた。
孟建などが噂するせゐか、襄陽の名士のあひだには、いつか、孔明の存在とその人物は、無言のうちに認められてゐた。
いはゆる襄陽名士なる知識階級の一群には、崔州平(サイシウヘイ)、司馬徽、龐徳公などゝいふ大先輩がゐたし、中でも河南の名士(メイし)黄承彦(クワウシヨウゲン)はすつかり孔明を見込んで、
「自分にも娘があるが、もし自分が女だつたら隆中の一青年に嫁ぐだらう」
とまで云つてゐた。
するとまた、ぜひ媒酌(バイシヤク)しようといふ者が出て来て、黄承彦のことばは、つひに実現した。——と云つても、勿論、黄承彦が嫁入するわけはない。孔明へ嫁いだのは、その娘である。
ところが花嫁は、父の黄承彦の顔を、もう少し可愛らしくした程度の不美人であつた。貞淑温雅(テイシユクヲンガ)で、名門の子女としての教養は申し分なくあるが、天質の容姿は至つて恵まれてゐなかつた。
「瓜田(クワデン)の変屈子(ヘンクツシ)には、お似合ひの花嫁さま——」
と、孔明を無能の青年としか見てゐない仲間は、ひどく興がつてよろこんだ。
然(しか)し、孔明とその新妻とは、実に〔ぴつたり〕してゐた。相性といふか、琴瑟(キンシツ)相和してといふ文字どほり仲がよい。
かくて彼の隆中に於ける生活もこゝ数年を実に平和に過して来た。
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次回 → 諸葛氏一家(六)(2025年8月1日(金)18時配信)

