吉川英治『三国志(新聞連載版)』(573)諸葛氏一家(三)
昭和16年(1941)7月30日(水)付掲載(7月29日(火)配達)
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当時すでに、想ひを将来に馳(は)する若人にも、南方支那の開発こそ、好箇の題目として、理想の瞳に燃え移つてゐたにちがひない。
北支の戦禍を避けて、南へ南へ移住して来る漢民族は、その天産と広い沃地へわかれて、忽ち新しい営みをし初めてゐた。
流民の大部分は、もとより奴婢(ヌヒ)土民が主(おも)であつたが、その中には、諸葛氏一家のやうな士大夫や学者などの知識階級もたくさんゐた。彼等は、各々、選ぶ土地に居を求めて、そこで必然、新しい社会を形成し、新しい文化を建設して行つた。
その分布は。
南方の沿海、江蘇方面から、安徽、浙江におよび、江岸の荊州(湖南・湖北)より、さらに遡(さかのぼ)つて益州(四川省)にまでちらかつた。
継母(はは)をつれた諸葛瑾が、呉の将来に嘱目して、江を南へ下つたのは、さすがに知識ある青年の選んだ方向といつていゝ。
そして、やがてそれから七年目。
呉の孫策が歿した年、継いで呉主として立つた孫権に見出されて、それに仕へる身となつたことは、さきに書いたとほりである。
けれど一方——叔父の玄やその家族に伴(つ)れられて荊州へ移つた孔明と末弟の均の方は、そのときこそ、保護者の手で安全な方向を選ばれたかのやうに思はれたが、以後の運命は、兄の瑾と相反してゐた。世路(セヂ)の波瀾は、はやくも少年孔明を鍛へるべく試すべく、あらゆる形で襲つて来た。
「荊州は、大きな都だよ。おまへたちの見たこともない物がたくさんにある。叔父さまは荊州の劉表さまとお友だちで、ぜひ来てくれとお招きをうけて今度行くんだから、都の中に、お城のやうなお住居を持つんだよ。おまへ達も、大勢の家来から、若さまといはれるのだから、品行をよくしなければいけませんよ」
叔母や叔父の身寄から、そんな前ぶれを聞かされて、少年孔明の胸はどんなにをどつたことだらう。
そして、荊州の文化に、如何に眼をみはつたことか。
ところが、居ることわづか一年足らずで、叔父の玄はまた、劉表の命で、
「豫章(ヨシヤウ)を治めてくれ。いま迄(まで)やつてをつた周術(シウジユツ)が病死したから」
と、その後任に、転任をいひ渡された。
こんどは、太守の格である。栄転にはちがひないが、任地の南昌(ナンシヤウ)へ行つてみると、ずつと文化は低いし、土地には、新任の太守に服さない勢力が交錯してゐるし——もつと困つた問題は、
「彼は、漢の朝廷から任命された太守ではないんだ。われ/\はさういふ朦朧地方官に服する理由をもたない」
と、弾劾する声の日にまして高くなつて来たことである。事実、中央からは、漢朝の辞令をおびた朱皓(シユカウ)といふものが、公然任地へ向つて来たが、もう先に、べつな太守が来て坐つてゐる為、城内へ入ることができなかつた。
当然、戦争になつた。
(おれが豫章の大守だ)
(いや、おれの方こそ正当な太守だ)
といふ変つた戦ひである。
朱皓のほうには、笮融(サクユウ)だの劉繇(リウエウ)などという豪族が尻押しについたので、玄はたちまち敗戦に陥り、南昌の城から追ひ出されてしまつた。
少年の孔明や弟の均は、このとき初めて、戦争を身に知つた。
叔父の一家とともに、乱軍のなかを落ちて、城外遠くに屯(たむろ)して、再起を計つてゐたが、或る夜、土民の反乱に襲はれて、叔父の玄は、武運つたなく、土民たちの手にかかつて首を取られてしまつた。
孔明は、弟の均を励ましつゝ、みじめな敗兵と一緒に逃げあるいた。——叔母も身寄もみな殺されて、知らない顔の兵ばかりだつた。
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次回 → 諸葛氏一家(四)(2025年7月30日(水)18時配信)

