吉川英治『三国志(新聞連載版)』(574)諸葛氏一家(四)
昭和16年(1941)7月31日(木)付掲載(7月30日(水)配達)
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その頃、潁川の大儒(タイジユ)石韜(セキタウ)は、諸州を遊歴して荊州にきてゐた。
由来、荊州襄陽の地には、好学の風が高く、古い儒学に対して、新しい解義が追求され、現下の軍事、法律、文化などの政治上に学説の実現を計らうとする意図が旺(さかん)であつた。
林泉(リンセン)あるところ百禽集まるで、自然、この地方に風を慕つて来る学徒や名士が多かつた。潁上の徐庶、汝南の孟建(マウケン)なども、その輩(ともがら)だつた。
叔父の玄を亡(うしな)ひ、頼る者とてなく、年少早くも世路の辛酸をなめつゝあつた孔明が初めて、石韜の門をくゞつて、
「学僕にして下さい」と、訪れたのは、彼が十七の頃だつた。
石韜は翌年、近国へ遊学にあるゐた。その時、師に従つて行つた弟子のなかに、白面十八の孔明があり、一剣天下を治むの概を持つ徐庶があり、また温厚篤学な孟建がゐた。
だから孟建や徐庶は、孔明より年もずつと上だし、学問の上でも先輩であつたが、ふたりとも決して、孔明を侮らなかつた。
「あれは将来、ひとかどになる秀才だ」
と、早くも属目してゐたのである。ところがそれは二人の大きな認識不足だつた。
なぜならば、その後の孔明といふものは、石韜を繞(めぐ)る多くの学徒の中にあつて、断然群を抜いてゐたし、その人物も、年とるほど、天質をあらはして、いはゆる世間なみの秀才などとは、まつたく型がちがつてゐた。
だが彼は、二十歳(はたち)を出るか出ないうちに、もう学府を去つてゐた。学問の為にのみ学問する学徒の無能や、論議のために論議のみして日を暮してゐる曲学阿世(キヨクガクアセイ)の仲間から逃げたのである。
では、それからの彼は、どうしてゐたかといふと、襄陽の西郊にかくれて、弟の均と共に、半農半学者的な生活に入つてしまつたのだつた。
晴耕雨読——その文字どほりに。
「いやに、老成ぶつたやつではないか」
「いまから隠棲(インセイ)生活を気どるなんて」
「彼は、形式主義者だ」
「衒(てら)ひに過ぎん」
学友はみな嘲笑した。多少彼を認め彼を尊敬してゐた者まで、月日と共にこと/゛\く彼を離れた。
たゞ、その後も相かはらず、彼の草廬へよく往来してゐたのは、徐庶、孟建ぐらゐなものだつた。
襄陽の市街から孔明の家のある隆中へ行くには、郊外の道をわづか二十里(わが二里)ぐらゐしかない。
隆中は山紫水明の別天地といつていゝ。遠く湖北省の高地から来る漢水の流れが、桐柏(トウハク)山脈に折れ、淯水(イクスヰ)に合し、中部支那の平原を蜒(うね)つて、名も沔水(ベンスヰ)と変つて来ると、その西南の岸に、襄陽を中心とした古い都市がある。
孔明の家から、晴れた日は、その流れその市街がひと目に見えた。彼の宅地は隆中の小高い丘陵の中腹にあり、家のうしろには、楽山(ラクザン)とよぶ山があつた。
——歩みて斉(セイ)の城門を出(い)づ
遙(はるか)にのぞむ蕩陰里(タウインリ)
里中、三墳、塁として相似たり
問ふこれ、誰(た)が家の塚
田疆(デンキヤウ)・古冶氏(コヤシ)
力はよく南山(ナンザン)を排し
文はよく地紀を絶つ
畑(はた)の中で、真昼、よくこんな歌が聞える。
歌はこの辺の民謡でなく、山東地方の古い昔語りを謡(うた)ふものだつた。
孔明の故郷(ふるさと)——斉国の史歌である。
声の主は、鍬をもつて畑(はた)を打つ孔明か、豆を苅(か)つて、莢(さや)を莚(むしろ)に叩く弟の均であつた。
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