吉川英治『三国志(新聞連載版)』(572)諸葛氏一家(二)
昭和16年(1941)7月29日(火)付掲載(7月28日(月)配達)
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戦乱があれば、戦乱のない地方へ、洪水や飢饉があれば、災害のなかつた地方へ——大陸の広さにまかせて、大陸の民は、流離漂泊に馴れてゐる。
「南へ行きませう」
と、諸葛氏の一家が、北支から避難したときも、黄巾の乱後の社会混乱が、どこまでつゞくか見通しもつかなかつた頃なので、
「南へ」
「南の国へ」
と、北支や山東の農民は、水の低きへつくやうに、各々、世帯道具や足弱を負つて、江東地方(揚子江の下流域・南京・上海)へ逃散して行くものが大変な数にのぼつてゐた。
まだ十三、四歳でしかない孔明の眼にも、このあはれな流離の群(むれ)、飢民の群の生活が、ふかく少年の清純なたましひに、
(——愍(あは)れな人々)
として烙(や)きついてゐたにちがひない。
(どうして、人間の群は、こんなに〔みじめ〕なのか。苦しむために生れたのか。……もつと、生を楽しめないのか)
そんな事も考へたであらう。
いや、もう十三、四歳といへば、史書、経書も読んでゐたであらうから、
(こんなはずではない。この世の中のうへに、ひとりの偉人が出れば、この無数の民は、こんな恟々(おど/\)した眼や、痩せこけた顔を持たないでもいゝのだ。——天に日月(ジツゲツ)があるやうに、人の中にも日月がなければならないのに、さういふ大きな人があらはれないから、小人(セウジン)同士が、人間の悪い性質ばかり出しあつて、世の中を混乱させてゐるのだ。——かはいさうなのは、何も知らないで果(はて)なく大陸をうろうろしてゐる何億という百姓だ)
と、いふ程度の考へは、もう少年孔明の胸に、人知れず醱酵(ハツカウ)してゐたにちがひない。
なぜならば、彼の一家も、大学を卒業したばかりの兄の瑾ひとりを杖とも柱とも頼み、家財道具と継母とを車に乗せて、孔明の弟の均(キン)や妹たちを励ましながら——わずかな奴僕(ヌボク)等に守られつゝ、それらの飢民の群に交(まじ)つて、毎日毎日曠野や河ばかりの果(はて)なき旅をつゞけてゐる境遇にあつたからである。
旅は苦しい。辛(つら)い。
いやしば/\生命(いのち)の危険すらあつた。また大自然の暴威——大陸の砂塵や豪雨や炎熱にも虐(しひた)げられ、野獣、毒虫の恐怖にも襲はれた。
二十歳(はたち)だいの長男。まだ十三、四歳の孔明。その下の弟妹たちは、このあひだにこそ、たしかに大きな「生きぬく力」を学んだにちがひない。
それは、流離の土民の子も、同じやうに通つて来た錬成の道場だつたが、出す素質がなければ艱難(カンナン)はたゞ意味なき艱難でしかない。——幸にも、諸葛家の子たちには、天与の艱難を後に生かす質があつた。
——かくて、漸く。
叔父の諸葛玄を頼つて、そこへ辿(たど)りついたのが、初平四年の秋——ちやうど長安の都で、董卓が殺された大乱の翌年であつた。
そこへ、半年ほどゐるうち、叔父の玄は、劉表の縁故があるので、荊州へゆくことになつた。
孔明と、弟の均とは、叔父の家族とともに、荊州へ移住したが——それを機(しほ)に、長男瑾は別れを告げて、
「わたくしも何か、一家の計を立てますから」
と、継母の章氏を伴つて、暮帆遠く、江を南に下つて、呉の地方へ、志を求めて行つた。
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次回 → 諸葛氏一家(三)(2025年7月29日(火)18時配信)

