吉川英治『三国志(新聞連載版)』(571)諸葛氏一家(一)
昭和16年(1941)7月27日(日)付掲載(7月26日(土)配達)
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孔明の家、諸葛氏の子弟や一族は、のちに三国の蜀、呉、魏——それ/゛\の国にはかれて、各々重要な地位をしめ、また時代の一方をうごかしてゐる関係上、こゝでまづ諸葛家の人々と、孔明そのものゝ為人(ひととなり)を知つておくのも、決してむだではなかろうと思ふ。
が、何ぶんにも、千七百餘年も前のことである。孔明の家系やその周囲に就(つ)いては、正確にはからない点も多分にある。
ほゞ明瞭なのは、さきに徐庶が玄徳へも告げてゐるやうに、その祖先に、諸葛豊といふ人があつたといふこと。
また、その諸葛豊は、前漢の元帝の頃、時の司隷校尉の役にあり、非常に剛直な性で、法律にしたがはない輩は、どんな特権階級でも、容赦しなかつた警視総監らしい。
それを證するに足るこんなはなしがある。
元帝の外戚にあたる者で、許章(キヨシヤウ)といふ寵臣(チヨウシン)があつた。これが国法の外の振舞をしてしかたがない。諸葛豊は、その不法行為をにらんで、
「いつかは」
と、法の威厳を示すべく誓つてゐたところ、或る折、又(また)復(また)、国法を紊(みだ)して、恬(テン)として顧みないやうな一事件があつた。
「断じて、縛る」
と、警視総監みづから、部下をひきつれて捕縛に向つた。ちやうど許章は宮門から出て来たところだつたが、豊総監のすがたを見て、あわてゝ禁門の中へかくれこんでしまつた。
そして、彼は、天子の寵をたのみ、袞龍(コンリウ)の袖にかくれて哀訴した。しかも、豊は国法の曲ぐべからざることを説いてゆるさなかつたので、天子は却(かへ)つて彼を憎み、彼の官職を採(と)り上げて、城門の校尉といふ一警手に左遷してしまつた。
それでも、彼は猶(なほ)、しば/\怪(け)しからぬ大官の罪をたゞして仮借(カシヤク)しなかつた為、つひにさういふ大官連から排撃されて、やがて免職をいひ渡され、ぜひなく郷土に老骨をさげて、一庶民に帰してしまつた人だとある。
その祖先の帰郷した地が、瑯琊であつたかどうか明瞭でないが——孔明の父、諸葛珪のゐた頃は、正しく今の山東省——瑯琊郡の諸城県から陽都(沂水の南)に移つて一家をかためてゐた。
諸葛といふ姓は初めは「葛(カツ)」といふ一字姓だつたかも知れない。諸国を通じての漢人中にも、二字姓は至つて稀(まれ)である。
もとは単に「葛氏」であつたが、諸城県から陽都へ家を移した時、陽都の城中に憚(はゞか)る同姓の家〔がら〕があつたので、前の住地の諸県の諸をかぶせ、以来「諸葛」という二字姓に改めたといふ説などもある。
孔明の父珪は、泰山の郡丞をつとめ、叔父の玄は、豫章(ヨシヤウ)の太守であつた。まづその頃も、家庭は相当に良かつたといつていゝ。
兄妹(キヤウダイ)は四人あつた。
三人は男で、ひとりは女子である。孔明はその男のうちの二番目——次男であつた。
兄の瑾(キン)は、早くから洛陽の大学へ入つて、遊学してゐた。
そのあひだに彼の生母はこの世を去つた。父には後妻が来た。
ところが、その後妻をのこして、こんどは彼等の父の珪が死去したのである。孔明はまだ十歳(とう)になるかならない頃であつた。
「どうしよう?」
腹ちがひの子三人の幼い者を擁して、後妻の章(シヤウ)氏も途方にくれてゐた。
ところへ、大学をほゞ卒業した長男の瑾が、洛陽から帰つて来た。
そして洛陽の大乱を告げた。
「これから先、世の中はまだ/\どんなに混乱するかわかりません。黄巾の乱は諸州の乱となり、たうとう洛陽まで火は移つて来ました。この北支の天地も、やがて戦乱の巷(ちまた)でせう。ひとまづ南の方へ逃げませう。江東(カウトウ)(揚子江流域・上海南京地方)の叔父さんを頼つて行きませう」
瑾は義母(はは)を励ました。
この長男も世の秀才型に似あはず至つて謹直で、よく継母に仕へ、その孝養ぶりは、生みの母に仕へるのと少しも変りはないと、世間の褒められ者であつた。
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次回 → 諸葛氏一家(二)(2025年7月28日(月)18時配信)
なお、日曜日については夕刊が休刊のため、配信はありません。

