吉川英治『三国志(新聞連載版)』(570)立つ鳥の声(四)
昭和16年(1941)7月26日(土)付掲載(7月25日(金)配達)
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隆中。
襄陽の西二十里の小村落。
そんな近いところに?
玄徳は、疑つた。
茫然——つい茫然と聞き惑つてゐた。
そのまに、徐庶の姿はもう先へ遠ざかりかけてゐた。
玄徳は、はつと、われに返つて、思はず手とともに大声をあげた。
「徐庶つ、徐庶つ。もう暫(しば)し待て。待つてくれい」
徐庶は又、駒を返して来た。玄徳のはうからも馬をすゝめて、
「隆中に、賢人ありとは、かつてまだ聞いてゐなかつた。それは真実(ほんと)のことか」
と、念を押した。
徐庶は答へて、
「その人は、極めて、名利に超越し、交はる人たちも、限られてゐますから、彼の賢を知るものは、極(ご)く少数しかないわけです。——それに、君には、新野の地にもまだ日浅く、周囲には荊州の武弁、都県の俗吏しか近づいてゐませんから、御存じないのは当然です」
「その人と、御辺との縁故は」
「年来の道友です」
「経綸済世の才、御辺みづから、その人と比しては?」
「拙者ごときの類(たぐひ)ではありません。——それを今日(こんにち)の人物と比較することは困難で、古人に求めれば、周の太公望、漢の張子房などなら、彼と比肩できるかもしれませぬ」
「御辺と友人のあひだならば、願うてもないこと、旅途を一日のばして、玄徳のために、その人を新野へ伴(ともな)うてはくれまいか」
「いけません」
膠(にべ)もなく、徐庶は、顔を横に振つた。
「どうして、彼が、拙者の迎へぐらゐで出て参るものですか。——君御自身、彼の柴門(サイモン)をたゝいて、親しくお召し遊ばさねばだめでせう」
聞くとなほ、玄徳は喜色をたゝへて云つた。
「ねがはくば、その人の名を聞かう。……徐庶、もつと審(つまびら)かに語り給へ」
「その人の生地は瑯琊(ロウヤ)陽都(ヤウト)(山東省・沂州)と聞き及んでをります。漢の司隷校尉(シレイカウヰ)、諸葛豊(シヨカツホウ)が後胤(コウイン)で、父を諸葛珪(シヨカツケイ)といひ、泰山の郡丞を勤めてゐたさうですが、早世されたので、叔父の諸葛玄(シヨカツゲン)にしたがつて、兄弟等みなこの地方に移住し、後(のち)、一弟と共に、隆中に草廬(サウロ)をむすび、時に耕し、時に書をひらき、好んで梁歩(リヤウホ)(ママ)の詩をよく吟じます。家のあるところ、一つの岡(をか)をなしてゐるので、里人これを臥龍岡(グワリウカウ)とよび、またその人をさして臥龍先生とも称してゐます。——すなはち、諸葛亮(シヨカツリヤウ)、字(あざな)は孔明(コウメイ)。まず当代の大才といつては、拙者の知る限りにおいて、彼をおいては、ほかに人はありません」
「……ああ。いま思ひ出した」
玄徳は肚(はら)の底から長息(チヤウソク)を吐いて、さらにかう訊ねた。
「それで思ひ当る事がある。いつか司馬徽の山荘に一夜を送つた時、司馬徽のいふには、いま伏龍鳳雛二人のうち、その一人を得れば、天下を定めるに足らんと。——で、自分が幾度か、その名を訊ねてみたが、たゞ好々(よし/\)とばかり答へられて、明かされなかつた。——もしや、諸葛孔明とはその人ではあるまいか」
「さうです。伏龍、それがすなはち孔明のことです」
「では、鳳雛とは、御辺のことか」
「否(いな)! 否!」
徐庶はあわてゝ、手を振つて云つた。
「鳳雛とは襄陽の龐統(ホウトウ)、字(あざな)を士元(シゲン)といふ者のこと。われ等ごときの綽名(あだな)ではありません」
「それではじめて、伏龍、鳳雛の疑ひも晴れた。あゝ知らなかつた!現在、自分も共に住むこの山河や市村(シソン)の間に、そんな大賢人が隠れて居ようとは」
「では、かならず孔明の廬(ロ)をお訪ねあそばすやうに」
徐庶は、最後の拝をして、一(イチ)鞭(ベン)、飛ぶが如く、許都の空へと馳け去つた。
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次回 → 諸葛氏一家(一)(2025年7月26日(土)18時配信)

