吉川英治『三国志(新聞連載版)』(567)立つ鳥の声(一)
昭和16年(1941)7月23日(水)付掲載(7月22日(火)配達)
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次の日の朝まだき。
徐庶は小鳥の声とともに邸を出てゐた。ゆうべは夜もすがら寝もやらずに明かしたらしい瞼(まぶた)である。今朝、新野の城門を通つた者では、彼が一番早かつた。
「単福ではないか。いつにない早い出仕。何事が起つたのか」
玄徳は、彼をみて、その冴えない顔色に、まづ、憂ひを共にした。
徐庶は、面(おもて)を沈めたまゝ、黙拝また黙拝して、漸く眉をあげた。
「御主君。あらためて、今日、お詫びしなければならないことが御座います」
「どうしたのか」
「実は、単福と申す名は、故郷の難をのがれて来たときの仮名(かりな)です。まこと私は、潁上の生れ徐庶、字(あざな)を元直と申すものです。初め、荊州の劉表は当代の賢者なりと聞いて、仕官に赴きましたが、ともに道を論じても、実際の政治を見ても、無用の凡君なりと知りました。で、一書を遺(のこ)して、同地を去り、悶々(モン/\)、司馬徽が山荘に行つて、事の次第を語りましたところ、水鏡先生には、拙者を叱つて、——汝、眼をそなへながら、人を見るに何たる不明ぞや。いま新野に劉豫州あり、行いて豫州に仕へよ——とのおことばでした」
「……」
玄徳は心のうちで、さてはと、過ぐる夜の水鏡山荘を思ひ泛(う)かべ、その折、主と奥で語つてゐた深夜の客をも思ひ合せてゐた。
「——で、拙者は、狂喜しました。さつそく新野に行きましたが、何の手蔓(てづる)とてない素浪人、折もあれば、拝姿の機会あるべしと、日々(ニチ/\)、戯歌(ギカ)を謡(うた)つて、町を彷徨(さまよ)うてをりました。そのうちに、念願が届いて、つひにわが君に随身の機縁を得、なほ素姓も定かならぬそれがしを、深くお信じ下されて、軍師の鞭(ベン)を賜はるなど、過分な御恩は忘れんとしても忘れることはできません。——士は己(おのれ)を知る者の為に死す、以来、心ひそかに誓つてゐた心は、それ以外にないのでした」
「……」
「ところが。……これ、御覧下さりませ」
と、徐庶は母の文(ふみ)を取り出して、玄徳に示しながら、
「かくの如く、昨夜、老母より手紙が参りました。愚痴には似たれど、この老母ほど、世に薄命なものは御座いません。良人には早く別れ、やさしき子には先立たれ、いまは拙者ひとりを、杖とも力ともしてをるのでした。然(しか)るに、この文面に依れば、許都に囚(とら)はれて、明け暮れ悲嘆に暮れてをるらしうございます。元来、自分は幼年から武藝が好きで、郷里に居れば郷党と喧嘩ばかりし、罪を得ては流浪するなど、母親に心配ばかりかけて来ました。——それ故つねに心のうちでは、不孝を詫びてをりまする。母を思ふと居ても立つてもゐられないのです。……実に実に……申し上げ難い儀には御座りますが、どうぞ拙者に、暫くのお暇(いとま)をおつかはし下さい。許都へ行つて母をなぐさめたいのです。母に老後の安心を与へ、母の行末(ゆくすゑ)を見終りましたら、かならず再び帰つて来ます。——わが君さへ棄て給はずば、きつと帰参いたします故(ゆゑ)、それまでのお暇(いとま)をいたゞきたいのでござゐまする」
「あゝ、よいとも……」
玄徳は快く承諾した。彼も貰ひ泣きして、眼には涙をいつぱいに湛(たゝ)へてゐた。
玄徳にも曽(か)つては母があつた。世の母を思ふとき、今は亡きわが母を憶(おも)はずにゐられない。
「何で御身の孝養を止めよう。母います日こそ尊い。くれ/゛\恩愛の道にそむき給ふな」
終日、ふたりは尽きぬ名残を語り暮してゐた。
夜に入つては、幕将すべてを集めて、彼のために餞行(センカウ)の礼を盛んにした。餞行の宴(エン)——つまり送別会である。
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次回 → 立つ鳥の声(二)(2025年7月23日(水)18時配信)

