吉川英治『三国志(新聞連載版)』(566)徐庶とその母(四)
昭和16年(1941)7月22日(火)付掲載(7月21日(月)配達)
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「斬れつ、婆(ばゝ)の細首を捻(ね)ぢ切つて取り捨てろつ」
曹操の呶号に、武士たちは、〔どつ〕と寄つて、老母の両手を高く拉(ラツ)した。
老母は自若として躁(さは)がない。曹操はいよ/\業(ゴフ)を煮やして、自ら剣を握つた。
「丞相、大人気(をとなげ)ないではありませんか」
程昱は、間に立つて、宥(なだ)めた。
彼は云ふ。
「ごらんなさい。この老母の自若たる態(テイ)を。——老母が丞相を罵つたのは、自分から死を求めてゐる證拠です。丞相のお手にかゝつて殺されたら、子の徐庶は、母の敵と、いよ/\心を磨いて、玄徳に仕へませうし、丞相は、かよわき老母を殺せりと、世上の同情を失はれませう。——そこに、老母は自分の一命を価値づけ、こゝで死ぬこそ願ひなれと、心のうちでホホ笑んでゐるにちがひありません」
「うゝム、さうか。——然(しか)らばこの媼(おうな)をどう処分するか」
「大切に養つておくに限ります。——さすれば徐庶も、身は玄徳に寄せてゐても、心は老母の所にあつて、思ふまゝ丞相に敵対は成りますまい」
「程昱、よいやうに計らへ」
「承知しました。老母の身は、私が大切に預かりませう。……なほ一策がありますが、それはまた後で」
彼は自分の邸(やしき)へ、徐庶の母を伴(つ)れて帰つた。
「むかし同門の頃、徐庶と私とは兄弟のやうにしてゐたものです。偶然あなたを家に迎へて、何だか自分の母が還つて来たやうな気がします」
程昱は、さう云つて朝夕の世話も実の母に仕へるやうだつた。
けれど、徐庶の母は、贅美(ゼイビ)をきらひ、家族にも遠慮がちに見えるので、別に近くの閑静な一(イチ)屋(ヲク)へ移して、安らかに住まはせた。
そして折々に珍しい食物とか衣服など持たせてやるので、徐庶の母も、程昱の親切にほだされて、度々(たび/\)、礼の文(ふみ)など返して来た。
程昱は、その手紙を丹念に保存して、老母の筆〔ぐせ〕を手習ひしてゐた。そしてひそかに主君曹操としめし合ひ、つひに巧妙なる老母の偽(にせ)手紙を作つた。いふまでもなく、新野にある老母の子徐庶へ宛てて認(したゝ)めた文章である。
単福——実は徐元直は、その後、新野にあつて、士大夫らしい質朴な一邸を構へ、召使(めしつかひ)なども至つて少く、閑居の日は、もつぱら読書などに親しんで暮してゐた。
すると或る日の夕べ、門辺を叩く男がある。母の使(つかひ)と、耳に聞えたので、徐庶は自身走り出て、
「母上に、何ぞ、お変りでもあつたのか」
と、訊ねると、使(つかひ)の男は、
「御文(おふみ)にて候や」
と、すぐ一通の手紙を出して徐庶の手にわたし、
「てまへは他家の下僕(しもべ)ですから、何事も存じません」
と、立ち去つてしまつた。
自分の居間にもどるやいな、徐庶は燈火(ともしび)を搔きたてゝ、母の文をひらいた。孝心のあつい彼は、母の筆を見るともう母のすがたを見る心地がして、眼には涙が溜つてくる——
庶よ、庶よ。つゝがないか。
わが身も無事ではゐるが、
弟の康は亡くなつてしまうた
し、孤独の侘しさといつては
ない。そこへまた、曹丞相の
命で、わが身は許都へさし立
てられた。子が逆臣に組した
といふ科(とが)で、母にも
縲紲(ルイセツ)の責めが降
りかゝつた。が、幸にも程昱
の情(なさけ)に扶けられ安
楽にはしてゐるが、どうぞ、
そなたも一日も早く母の側に
来てたもれ。母に顔を見せて
下され——
こゝまで読むと徐庶は、〔さん〕然(ゼン)と流涕(リウテイ)して燭(シヨク)も滅すばかり、独り泣いた。
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