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前回はこちら → 徐庶とその母(二)
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老母は、答(こたへ)を知らない。相かはらず、山鳩のやうな小さい眼を、しよぼ/\させて、曹操の顔を仰いでゐるだけだつた。
無理もない——
曹操は、充分に察しながら、猶(なほ)もやさしく、かう云つた。
「なう、さうではないか、徐庶ほどな人物が、何を好んで、玄徳などに仕へたものか。まさか、おつ母(か)さんの同意ではあるまいが。——しかも玄徳は、やがて征伐される運命にある逆臣ですぞ」
「……」
「もし、あなた迄(まで)が同意で奉公に出したなら、それは掌中の珠をわざ/\泥のうちへ落したやうなものだ」
「……」
「どうぢやな、おつ母さん。あんたから徐庶へ手紙を一通書かれたら?……。わしは深くあなたの子の天質を惜(をし)んでをる。もしあなたが我が子をこれへ招きよせて、よき大将にしたいといふなら、この曹操から、天子へ奏聞いたして、かならず栄職を授け、またこの都の内に、宏壮な庭園や美しい邸宅に、多くの召使を付けて住まはせるが……」
すると、——老母は初めて、唇(くち)をひらゐた。何か云はうとするらしい容子に、曹操はすぐ唇(くち)をとじて、宥(いた)はるやうにその面(おもて)を見まもつた。
「丞相さま。この媼(をうな)は、ごらんの通りな田舎者、世の事は、何も辨(わきま)へませぬが、たゞ劉玄徳といふお方のうはさは、木を伐(き)る山樵(やまがつ)でも、田に牛を追ふ爺(ぢい)でも、よう口にして申してをりまするが」
「ほ。……何というてゐるか」
「劉皇叔こそ、民のために生れ出て下された当世の英雄ぢや、まことの仁君ぢやと」
「はゝゝゝ」——曹操は〔わざ〕と高く笑つて、
「田野(デンヤ)の黄童(クワウドウ)や白叟(ハクソウ)が何を知らうぞ。あれは沛郡の匹夫に生れ、若くして沓(くつ)を売り、莚(むしろ)を織り、稀々(たま/\)、乱に乗じては無頼者(あぶれもの)をあつめて無名の旗をかざし、うはべは君子の如く装つて内に悪逆を企(たくら)む不逞(フテイ)な人物。地方民をだましては、地方民を苦しめて歩く流賊の類(たぐひ)にすぎん」
「……はてなう。媼(をうな)が聞いてゐる世評とは、たいさう違ひすぎまする。劉玄徳さまこそ、漢の景帝が玄孫におはし、堯舜の風を学び、禹(ウ)湯(タウ)の徳を抱(いだ)くお方。身を屈して貴をまねき、己を粗にして人を貴ぶ。……さう称(たゝ)へぬものはありませぬがの」
「みな玄徳の詐術といふもの。彼ほど巧みな偽(ギ)君子はない。そんな者にあざむかれて、万代に悪名を残さんよりは、今もいうた通り、徐庶へ手紙を書いたがよからう。なう老母、ひと筆書け」
「さあ?……それは」
「何を迷ふ。わが子のため、また、そなた自身の老後のために。……筆、硯(すゞり)もそこにある。ちよつと認(したゝ)めたがいゝ」
「いえ。いえ」
老母は、にはかに強(きつ)くかぶりを振つた。
「わが子のためぢや。——たとひこゝに生命(いのち)を落さうと、母たるこの媼(をうな)は、決して筆は把(と)りませぬ」
「なに。嫌ぢやと」
「いかに草家(くさや)の媼とて、順逆の道ぐらゐは知つてをりまする。漢の逆臣とは、すなはち、丞相さま、あなた自身ではないか。——何でわが子を、盟主から去らせて、暗きに向はせられようか」
「うーむ、婆!この曹操を逆臣というたな」
「云ひました。たとひ痩(やせ)浪人の母として、世を細々(ほそ/゛\)としのがうとも、お許(もと)のごとき悪逆の手先にわが子を仕へさすことはなりませぬ」
きつぱりと云ひ断(き)つた。そして、さつきから目の前に押しつけられてゐた筆を取るやいな、やにはに庭へ投げ捨てゝしまつた。当然曹操が激怒して、この糞婆(くそばゝ)を斬れと、呶号して突つ立つと、とたんに、老母の手はまた硯(すゞり)をつかんで、発矢(ハツシ)と、曹操にそれを投げつけた。
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次回 → 徐庶とその母(四)(2025年7月21日(月)18時配信)
なお、日曜日については夕刊が休刊のため、配信はありません。