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徐庶の生ひ立ちを物語つて、程昱のはなしは寔(まこと)に審(つまびら)かであつた。曹操は、それの終るのを待ちかねてゐたやうに、すぐ畳みかけて質問した。
「では、単福というのは、徐庶の仮名(ケミヤウ)であつたか」
「さうです、穎上の徐庶といへば、知る人も多いでせうが、単福では、知る者もありますまい」
「聞けば聞くほど、士道——借問(シヤクモン)するが、程昱、そちの才智と徐庶とを比較したら、どう云へるか」
「到底、それがしの如きは、徐庶の足もとにも及びません」
「謙遜ではないのか」
「徐庶の人物、才識、その修業を十のものとして、例へるならば、それがしの天稟(テンピン)はその二ぐらゐにしか当りますまい」
「ウーム。そちがそれ程まで称(たゝ)へるところを見れば、よほどな人物に違ひない。曹仁、李典が敗れて帰つて来たのはむしろ道理である。……ああ」
と、曹操は嘆声を発して、
「惜(をし)い哉(かな)、惜い哉、さういふ人物を今日(こんにち)まで知らず、玄徳の帷幕に抱へられてしまつたことは。かならずや、後に大功を立てるであらう」
「丞相。その御嘆声は、まだ早いかと存ぜられます」
「なぜか」
「徐庶が玄徳に随身したのは、ごく最近の事と思はれますから」
「それにしても、すでに軍師の任をうけたとあれば」
「かれが、玄徳のために大功をあらはさぬうちに、その意(こゝろ)を一転させることは、さして至難ではありません」
「ほ。その理由(わけ)は?」
「徐庶は、幼少のとき、早く父を喪(うしな)ひ、ひとりの老母しかをりません。その老母は、彼の弟(おとうと)徐康(ジヨカウ)の家にをりましたが、その弟も、近ごろ夭折(わかじに)したので、朝夕親しく老母に孝養する者が居ないわけです。——ところが徐庶その人は、幼少より親孝行で評判だつた位ですから、彼の胸中は、今、旦暮、老母を想ふの情がいつぱいだらうと推察されまする」
「なるほど——」
「故にいま、人をつかはして、懇(ねんごろ)に老母をこれへ呼びよせ、丞相より親しくお諭(さと)しあつて、老母をして子の徐庶を迎へさせるやうになすつたら、孝子徐庶は、夜を日に継いで都へ駈けて参るでせう」
「むゝ。いかにも、おもしろい考へだ。さつそく、老母へ書簡をつかはしてみよう」
日を経て、徐庶の母は、都へ迎へ取られて来た。使者の鄭重、府門の案内、下へも置かない扱ひである。
けれど、見たところ、それは平凡な田舎(ゐなか)の一老婆でしかない。寔(まこと)に質朴そのものの姿である。幾人もの子を生んだ小柄な体は、腰が曲がりかけてゐる為、よけい小さく見える。人に馴れない山鳩のやうな眼をして、恟々(おど/\)と、貴賓閣に上り、餘りに豪壮絢爛な四壁の中に置かれて、すこし頭痛でも覚えて来たやうに迷惑顔をしてゐた。
やがてのこと、曹操は群臣を従へて、これへ現れたが、老母を見ると、まるでわが母を拝するやうに犒(ねぎら)つて、
「ときに、おつ母(か)さん、あなたの子、徐元直はいま、単福と変名して、新野の劉玄徳に仕へてをるさうですな。どうしてあんな一定の領地も持たない漂泊の賊党などに組してをるのですか。——可惜(あたら)、天下の奇才を抱(いだ)きながら」
と、ことばも〔わざ〕と俗に嚙みくだいて、やんはりと問ひかけた。
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次回 → 徐庶とその母(三)(2025年7月19日(土)18時配信)