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前回はこちら → 軍師の鞭(二)
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彼の揶揄(ヤユ)に、李典は一言、
「自分が惧(おそ)れるのは、敵が背後へ廻つて、樊城の留守を衝くことだ。たゞ、それだけだ」
と、あとは口を緘(カン)して、何も云はなかつた。
曹仁は、その晩、夜襲を敢行した。けれど、李典の豫察にたがはず、敵には備へがあつた。
敵の陣営深く、討ち入つたかと思ふと、帰途は断たれ、四面は炎の墻(かき)になつてゐた。まんまと、自らすゝんで火殺(クワサツ)の罠(わな)に陥ちたのである。
さん/゛\に討ち破られて、北河の岸まで逃げて来ると忽然、河濤(カタウ)は岸を搏(う)ち、蘆狄(ロテキ)はみな蕭々と死声を呼び、曹仁の前後、見るまに屍山血河(シザンケツガ)と化した。
「燕人(エンジン)張飛、こゝに待ちうけたり、ひとりも河を渡すな」
と、伏勢の中で声がする。
曹仁は立往生して、すでに死にかゝつたが、李典に救はれて、辛(から)くも向ふ岸に這ひ上つた。
そして樊城まで、一散に逃げて来ると、城の門扉を八文字に開いて、
「敗将曹仁、いざ入り給へ。劉皇叔が弟臣、雲長関羽がお迎へ申さん」
と、金鼓を打ち鳴らして、五百餘騎の敵が、さつと駈け出して来た。
「あつ?」
仰天した曹仁は、疲れた馬に鞭打ち、山にかくれ、河を泳ぎ、赤裸同様な姿で都へ逃げ上つたといふ。その醜態を時人みな「見苦しかりける有様なり」と嗤(わら)つた。
三戦三勝の意気(イキ)昂(たか)く、やがて玄徳以下、樊城へ入つた。県令の劉泌(リウヒツ)は出迎へた。
玄徳はまづ民を安んじ、一日城内を巡視して劉泌の邸(やしき)へ入つた。
県令の劉泌は、もと長沙の人で玄徳とは、同じ劉姓であつた。漢室の宗親、同宗の誼(よし)みといふ気もちから特に休息に立ち寄つたものである。
「こんな光栄はございません」
と、劉家の家族は、総出でもてなした。
酒宴の席に、劉泌はひとりの美少年を伴(つ)れてゐた。玄徳がふと見ると、人品(ジンピン)尋常(よのつね)でなく、才華玉の如きものがある。で、劉泌にそつと訊ねてみた。
「お宅の御子息ですか」
「いえ、甥ですよ——」
と、劉泌はいさゝか自慢さうに語つた。
「もと寇(コウ)氏の子で、寇封(コウホウ)といひます。幼少から父母を喪(うしな)つたので、わが子同様に養つて来たものです」
よほど寇封を見込んだものとみえて、玄徳はその席で、
「どうだらう、わしの養子にくれないか」
と、云ひ出した。
劉泌は、非常な歓びかたで、
「願うてもない倖(しあは)せです。どうかお連れ帰り下さい」
と、当人にも話した。寇封の歓びはいふ迄(まで)もない。その場で、姓も劉に改め、すなわち劉封(リウホウ)と改め、以後、玄徳を父として拝すことになつた。
関羽と張飛は、ひそかに眼を見あはせてゐたが、後玄徳へ直言して、
「家兄(このかみ)には、実子の嫡男もおありなのに、なんで螟蛉(メイレイ)を養ひ、後日の禍(わざはひ)を強(し)ひてお求めになるのですか。……どうも貴方(あなた)にも似合はないことだ」
と諫めた。
けれど、父子の誓約は固めてしまつたことだし、玄徳が劉封を可愛がることも非常なので、その儘(まゝ)に過ぎてゐるうちに、
「樊城は守るに適さない」
といふ単福の説もあつて、そこは趙雲の手勢にあづけ、玄徳はふたたび新野へ回(かへ)つた。
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次回 → 徐庶とその母(一)(2025年7月17日(木)18時配信)
今回で14冊単行本の巻の六「新野の巻」に当たる部分は終了です。次回からは巻の七「孔明の巻」に入ります。