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——すると玄徳も、容(かたち)をあらためて単福へ云つた。
「君を伴つて、こゝへ客として迎えたのは、君を志操の高い人と見たからであつた。然(しか)るに今、汝の言を聞けば、仁義を教へず、却(かへ)つて、不仁の佞智(ネイチ)をわれに囁(さゝや)く。玄徳はさういふ客へ礼遇はできないし、早く立ち帰つたがよからう」
「はゝゝ、成程、劉玄徳は、うはさに違はぬ仁君だ……」と、単福はさも愉快そうに手を打つて、
「お怒りあるな。実はわざと心にもない一言を呈して、あなたの心を試してみたまでです。どうか水に流して下さい」
「いや、それなら歓ばしい限りです。願はくば、真実の言を惜(をし)まれず、玄徳のために、仁政を論じ、善き経綸をお聞かせ賜はりたい」
「拙者が潁上からこの地方へ遊歴してくる途中、百姓の謡(うた)ふのを聞けば——新野ノ牧劉皇叔、ココニ到リテヨリ地ニ枯田(コデン)ナク天ニ暗日(アンジツ)無シ——と云つてゐました。故に、ひそかにお名を心に銘じ、あなたの徳を慕つてゐた拙者です。もし菲才(ヒサイ)をお用ひくださるなら、何で労を惜(をし)みませう」
「かたじけない。人生の長い歳月のうちでも、賢に会ふ一日は最大の吉日とか云ふ。今日は何といふ幸(さいはひ)な日だらう」
玄徳の歓びやうと云つたらなかつた。彼は今、新野にあるとはいへ、その兵力その軍備は、依然、徐州の小沛にゐた当時とすこしも変りない貧弱さであつた。けれどその弱小も貧しさも嘆きはしなかつた。たゞ、絶えず心に求めて熄(や)まなかつたものは「物」でなく「人物」であつた。司馬徽に会つてからは、猶(なほ)更(さら)、その念を強うし、明けても暮れても、人材を求めてゐたことは、その日の彼の歓び方を以(もつ)ても察することができる。
さうした玄徳であるから、
(この人物こそ)
と見込むと、実に思ひきつた登用をした。すなはち単福をもつて、一躍軍師に挙げ、これに指揮鞭(シキベン)を授けて、
(わが兵馬は、足下(ソクカ)に預ける。足下の思ふまゝ調練し給へ)
と、一任した。
そして黙つて見てゐると、単福は練兵調馬の指揮にあたるや、さながら自分の手足を動かすやうに自在で、しかも精神的にこれを鍛錬し、科学的に装備してゆくので、新野の軍隊は小勢ながら目立つて良くなつて来た。
この日頃——曹操はもう北征の業を一まづ終つて、都へ帰つてゐたが、ひそかに次の備へとして、荊州方面を窺(うかゞ)つてゐた。
その瀬(せ)踏(ぶ)みとして、一族の曹仁を大将とし、李典、呂曠、呂翔の三将を添へて、樊城(ハンジヤウ)へ進出を試み、——そこを拠点として、襄陽、荊州地方へ、ぼつ/\越境行為を敢(あへ)てやらせてゐた。
「いま、新野に玄徳がゐて、だいぶ兵馬を練つてゐます。後日、強大にならない限りもないし、荊州へ攻め入るには、いづれにしても足手まとひ。まづ先に、新野を叩き潰(つぶ)しておくのは無駄ではありますまい」
呂曠、呂翔が献策した。
曹仁は二人の希望にまかせて、兵五千を貸し与へた。呂軍はたちまち境を侵して、新野の領へ殺到した。
「単福、何とすべきか?」
玄徳は、軍師たる彼に計つた。到底、まだ他と戦つて勝てるほどな軍備は出来てゐなかつた。
「お案じ召さるな。弱小とはいへお味方をのこらず寄せれば、二千人はあります。敵は五千と聞きますから、手頃な演習になりませう」
実戦に立つて、単福が軍配を采(と)つたのは、この合戦が始めてゞあつた。
関羽、張飛、趙雲なども、よく力戦奮闘したが、単福の指揮こそ、まことに鮮やかなものだつた。
敵を誘ひ、敵を分離させ、また個々に敵団を剿滅(サウメツ)して、はじめ五千といはれた越境軍も、やがて樊城へ逃げ帰つたのは僅々(キン/\)二千にも足らなかつたといふ。何しても、単福の用兵には、確乎(カクコ)たる学問から成る「法」があつた。決して偶然な天佑や奇勝でないことは、誰にも認められたところであつた。
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次回 → 軍師の鞭(べん)(一)(2025年7月14日(月)18時配信)
なお、日曜日については夕刊が休刊のため、配信はありません。