ターミナルページはこちら(外部サービス「note」にリンク)
前回はこちら → 吟嘯浪士(一)
***************************************
ふと、駒をとめて、市(いち)の騒音の中に、玄徳は耳を澄ましてゐた。孤剣(コケン)葛巾(カツキン)の浪士は、飄々乎(ヘウ/\コ)として辻を曲がつて此方(こなた)へ歩いて来る。
その歌ふのを聞けば、——
天地(テンチ)反覆(ハンプク)火(ヒ)殂(ソ)セント欲ス
大廈(タイカ)崩(クヅ)レントシ一(イチ)木(ボク)扶(タス)ケ難シ
四海ニ賢アリ明主ニ投ゼントス
聖主ハ賢ヲ捜(サグ)ルモ却(カヘ)ツテ吾ヲ知ラズ
「……はてな?」
玄徳は何か自分の身を歌はれてゐるやうな気がした。そして、司馬徽が云つた、臥龍、鳳雛の一人がもしやその浪士ではないかしらなどと思つた。
彼は、馬から降りて、浪士が側を通るのを待つてゐた。布衣(ホイ)草履(ザウリ)少しも身は飾つてゐないが、どこかに気概の凛たるものを備へ、赭顔(シヤガン)疎髯(ソゼン)、寔(まこと)に渋味のある人物だ。
「あいや、御浪人」
玄徳は呼んで話しかけた。浪士は怪しんでじろ/\彼を視つめる。物云へば錆(さび)のある声で、眼光はするどいが、底に堪(たま)らない情味をたゝへてゐた。
「何ですか。——お呼びになつたのは、拙者のことで?」
「さうです、寔(まこと)に唐突ですが、何ですか、あなたと私とは、路傍でこのまゝ相(あひ)距(へだ)つてしまふ間〔がら〕ではない気がしてなりません」
「はゝあ……?」
「如何でせう、私と共に、城中へお越し下さるまいか。一献(イツコン)酌(く)みわけて、錆のあるあなたの吟嘯を、清夜、更に心腸を澄まして伺ひたいと思ふが」
「はゝゝ、拙者の駄吟などは、お耳を汚(けが)すには足りません。けれど路傍の人でない気がすると仰つしやつたお言葉に感謝する。——お伴(とも)しませう」
浪士は気軽であつた。
城中へ来てみると、小城ながら新野の城主と分つて、気軽な彼もやゝ意外な顔をしてゐたが、玄徳は上賓の礼をもつて、これを迎へ、酒をすゝめながら、さて名をたづねた。
「拙者は、潁上(エイジヤウ)の単福(タンフク)と申し、いさゝか道を問ひ、兵法を学び、諸国を遊歴してをる一介の浪人に過ぎません」
単福は、それ以上、素姓も語らず、忽ち話題を一転して、かう求めた。
「最前、あなたの乗つてゐた馬をもう一度、庭上へ曳き出して、拙者に見せて下さいませんか」
「お易いことです」
玄徳は、直(たゞち)に、馬を庭上へ曳かせた。単福は、つぶさに馬相を眺めて、
「これは千里の駿足ですが、かならず主(シユ)に祟(たゝ)りをなす駒です。よく今まで何事もありませんでしたな」
「されば、人からも、度々同じ注意をうけましたが、祟りどころか、先頃、檀渓の難をのがれ、九死に一生を得たのはまつたくこの馬の力でした」
「それは、主を救ふたとも云へませうが、馬が馬自身を救つたのだとも云へませう。ですから祟りは祟りとして、一度は屹度(キツト)、飼主に禍(わざはひ)します。——が、その禍を未然に除く方法も、決して無いではありません」
「さういふ方法があるならば、是非、お教へを仰ぎたいが」
「お伝へいたさう。その方法とは、すなはち彼(か)の馬を、暫くの間(あひだ)近習(キンジユ)の士に借(か)しておくのです。そしてその者が祟りをうけて後、君の手に取り戻して御乗用あれば、まず以(もつ)て心配はありません」
聞くと、玄徳は急に、不愉快な色を面(おもて)にあらはして、家臣を呼び、
「湯を点(てん)ぜよ」
と、素ツ気なくいひつけた。
湯を点ぜよ——といふことは、ちやうど、酒客に対して茶を出せとか、飯(めし)にしろとか、主人が給仕の家族へ促すのと同じことである。つまり主人から酒の座を片づける意味を表示したことになる。
「お待ちなさい。わざ/\拙者を呼び迎へながら、湯を点ぜよとは、何事であるか。何で急に客を追ひ立て給ふか」
単福としては猶(なほ)、面白くないに違ひない。杯を下において、かう開き直つた。
***************************************
次回 → 吟嘯浪士(三)(2025年7月12日(土)18時配信)