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前回はこちら → 檀渓を跳ぶ(三)
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玄徳も、またその乗馬も、共に身ぶるひして、満身の水を切つた。
「ああ!我生きたり」
無事、大地に立つて檀渓の奔流を振返つたとき、玄徳は叫ばずにはゐられなかつた。そして、
「どうして越え得たらう?」
と、後からの戦慄に襲はれて、茫然、猶(なほ)も身を疑つてゐた。
すると渓(たに)を隔てゝ、おうーいつと、誰やら呼ぶ声がする。誰かと見れば、蔡瑁であつた。
蔡瑁は、玄徳が逃げたあとで、番兵から急を聞くと、すぐ悍馬を励まして追ひかけて来たが、すでに玄徳の姿は対岸にあつて、眼前の檀渓にたゞ身を寒うするばかりだつた。
「劉(リウ)使君(シクン)。劉使君。何を怖れて、そのやうに逃げ走るか」
蔡瑁の呼ばはるに、玄徳も此方(こなた)から高声で答へた。
「われと汝と、なんの怨恨かある。然(しか)るに、汝はわれを害せんとする。逃ぐるは君子の訓(をし)へに従ふのみ」
「やあ、何ぞこの蔡瑁が御身(おんみ)に害意を抱かうや。疑ひを去りたまへ」
と、云ひながら、密かに弓を把(と)つて、馬上に矢を番(つが)へてゐる容子らしいので、玄徳はそのまゝ南漳(ナンシヤウ)(湖北省・南漳)の方をさして逃げ落ちて行つた。
「ちえつ……みす/\彼奴(きやつ)を」
蔡瑁は歯ぎしりを嚙むだけだつた。切つて放つた一矢も、檀渓の上を行くと、一すぢの藁みたいに奔濤(ホンタウ)の霧風(ムフウ)に弄ばれて舞ひ落ちてしまふに過ぎない。
「残念。何とも無念な……」
幾度か悔やんだが、又ひそかに思ふには、この檀渓の嶮(ケン)を、易々(やす/\)と無事に渡るなど、到底、凡人のよくなし能(あた)ふ業ではない。玄徳には、おそらく神明の加護があるからだらう。神力には抗し難し、——如(し)かずこゝは引つ返して他日を待たう。さう彼は自分を宥(なだ)めて、空しく道をもどつた。
と——彼方から馬煙りあげてこれへくる一陣の兵馬があつた。見ると真つ先には趙雲子龍、あとには三百の部下が彼と共に眼のいろ変へて喘(あへ)ぎ/\馳け続いて来る。
「やつ、趙雲ではないか。どこへ参られる?」
蔡瑁は、先手を打つて空(そら)惚(とぼ)けた。
「——何処へというて、わが主君のお姿が見えぬ。その為かうして、八方お捜(さが)し申してをる。足下は御存じないか」
「実は自分も、それを案じて、ここまで見に参つたが、いつかう見当らん。いつたい、何処(どこ)へ行かれたのやら?」
「不審だ!」
「まつたく不思議だ」
「いや、汝の態度を云つたのだ」
「此(この)方(ハウ)に何の不審があるか」
「今日、襄陽の会に、何を目的に、あんな夥(おびたゞ)しい軍兵を、諸門に備へたか」
「此(この)方(ハウ)は、荊州九軍の大将軍、また明日は、大宴に続いて、国中の武士を寄せ、狩猟(かり)を催すことになつてをる。大兵はその勢子(せこ)だ。何の不審があるか」
「ええ、こんな問答はしてをられぬ!」
趙雲は、渓(たに)に沿つて、馳け去つた。部下を上流下流に分け、声も嗄(か)れよと呼んでみたが、答へるものは奔潭(ホンタン)の波だけだつた。
いつか日は暮れた。
趙雲はかさねて襄陽の城内へ戻つてみたが、そこにも玄徳の姿は見えない。——で、彼は悄然と、夜を傷みつゝ新野の道へ帰つて行つた。
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次回 → 琴を弾く高士(一)(2025年7月5日(土)18時配信)