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前回はこちら → 檀渓を跳ぶ(二)
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州の主催にかゝる官衙(クワンガ)の園遊会は、要するに、知事以下の官吏や州の有力者が、この日の答礼と歓迎の意を表したものである。
玄徳は迎へられて、そこへ臨んだ。
馬を後園に繫(つな)がせて、定められた堂中の席に着くと、知事、州吏、民間の代表者など、交々(こも/゛\)、拝礼を行つて満堂に列坐し、さま/゛\に酒をすゝめて玄徳をもてなした。
酒三巡の頃にいたると、かねて肚(はら)に一物のある王威と文聘は、玄徳のうしろに屹(キツ)と侍立してゐる趙雲の側へ寄つて、
「いかゞです、一献」
と、杯(さかづき)をすゝめ、
「さう厳然と立ち通しでは大変です。今日(こんにち)は上下一体、和楽歓游の日で、はや公式の席はあちらで相済んだ事でもありますから、足下もひとつ寛(くつろ)いで下さい。ひとつ別席へ参つて、われ/\武骨者は武骨者同士で大いに飲(や)りませう」
と促した。
「いや、御辞退申す」
趙雲はに膠(にべ)もない。
「——折角だが断る」
とのみで、何(ど)う誘つても、そこから動かうとはしない。
けれど文聘や王威が怒りもせず、飽(あく)まで根よく慫慂(シヨウヨウ)してゐる様子を、玄徳は見るに見かねて、
「これ/\、趙雲」
と、振向いて——
「そちはよからうが、そちの侍立してゐるうちは、部下の者共も動くことができまい。それに折角のおもてなしに対して餘り固辞するも礼を缺く。——諸君のおことばに甘へ、暫(しば)し退(さ)がつて休息いたすがよい」
と、云つた。
趙雲は、甚だ〔ぶつきら〕棒に、
「主命とあれば——」
是非がない!といはんばかりな顔して、文聘や王威等と共に、別館へ退(さ)がつた。
部下五百の者も、同時に、自由を与へられて、各々遠く散らかつた。
蔡瑁は、心の裡(うち)で、
「わが事成れり」
と、早くも座中の空気を見廻してゐた。すると、大勢の中にあつた伊籍が、玄徳にそつと目くばせして、
「まだ御正服のまゝではありませんか。衣をお着(き)更(か)へなされては如何(いかゞ)」
と、囁いた。
意を悟つて、玄徳は、厠(かはや)へ立つ振りをして後園に出て見ると、果(はた)して、伊籍が先に廻つて木陰に待つてゐた。
「今や貴方(あなた)の一命は風前の燈火(ともしび)にも似てゐる。すぐお逃げなさい!一瞬を争ひますぞ」
伊籍のことばに、さてはと、玄徳も、直感して、すぐ駒を解いて引寄せた。
伊籍はかさねて、
「東門、南門、北門、三方すべて殺地(サツチ)。たゞ西の門だけには、兵をまはしてないやうです」
と、教へた。
「かたじけない、後日、生命あれば亦(また)」
云ひ残したまゝ、玄徳は後も見ずに走り出した。西門の番兵が、呀(あ)ツと何か呶鳴つたやうだが、飛馬の蹄(ひづめ)は、一(イチ)塵(ヂン)の下(もと)に彼の姿を遠くしてしまつた。
鞭も折れよと、馳け跳ぶこと二里餘り、道はそこで断たれてゐた。たゞ見る檀渓(湖北省・襄陽ノ西、湘江(シヤウカウ)ノ一支流)の偉観が前に横(よこた)はつてゐる。断層をなした激流の見渡すかぎりは、白波(ハクハ)天にみなぎり奔濤(ホンタウ)は渓潭(ケイタン)を嚙み、岸に立つや否、馬(うま)嘶(いなゝ)き衣は颯々(サツ/\)の霧に濡れた。
玄徳は馬の平首を叩いて、
「的盧々々。汝、今日われに祟りをなすか、またわれを救ふや。——性あらば助けよ!」
と叫び、また心に天を念じながら、いきなり奔流へ馬を突つ込んだ。激浪は人馬をつゝみ、的盧は首をあげ首を振つて濤(なみ)と闘ふ。そして辛(から)くも中流を突き進むや、約三丈ばかり跳んで、対岸の一石へ水煙りと共に跳び上つた。
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次回 → 檀渓を跳ぶ(四)(2025年7月4日(金)18時配信)