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この日、会するもの数万にのぼつた、文官軍吏の賓客、みな盛装を凝(こら)し、礼館の式場を中心に、宛(ヱン)として秋天の星の如く埋まつた。
喨々(レウ/\)たる奏楽裡、玄徳は国主の代理として、館中の主座に着席した。
この平和な空気に臨んで、玄徳は心にほつとしてゐたが、彼のうしろには、爛(ラン)たる眼(まなこ)をくばり、大剣を佩(は)いて、
「わが主君に、一指でも触るゝ者あらば免(ゆる)さんぞ」
と、云はんばかりな顔して侍立してゐる趙雲子龍があり、又その部下三百人があつて、却(かへ)つて、玄徳の守備の方が、物々し気(げ)に見え過ぎてゐた。
式は開かれた。玄徳は、劉表に代つて、国主の「豊穰(ホウジヤウ)を共に慶賀するの文」を読みあげた。
それから諸賓を犒(ねぎら)ふ大宴に移つて、管鼓琴絃(クワンコキンゲン)沸くばかりな音楽の裡(うち)に、料理や酒が洪水の如く人々の華卓に餐(ケフ)された。
蔡瑁は、この間に、そつと席を外して、
「君。ちよつと、顔を貸してくれぬか」
と、大将蒯越に耳(みゝ)打(うち)した。
ふたりは人無き一閣を閉め切つて、首を寄せてゐた。
「蒯越。足下も玄徳の毒に中(あ)てられるな。あれが真の君子なら世の中に悪党はない。彼は腹ぐろい梟雄(ケウユウ)だ」
「……左様かなあ?」
「まづ嫡男の劉琦君をそゝのかして、後日、荊州を横奪せんと企んでおるのを知らんか。彼を生かしておくのは、われ/\の国の災(わざはひ)だと思ふ」
「では貴君(あなた)は、今日、彼を殺さんといふお心なのか」
「襄陽の会は、実にそれを謀(はか)るために催したと云つてもよろしい、彼を除く事の方が、一年の豊穰を歓ぶよりも、百年の安泰を祝すべき事だと信じる」
「でも、玄徳といふ人物には、不思議にも隠れた人望がある。この荊州へ来てからまだ日も浅いが、頻(しき)りと彼の名声は巷間に伝へられてをる。——それを罪もなく殺したら、諸人の輿望(ヨバウ)を失いはすまいか」
「討ち取つてしまひさへすれば、罪は何とでも後から称へられる。総(すべ)ては、この蔡瑁が御主君より任せられてゐるのだから、ぜひ足下にも一(イツ)臂(ピ)の力を借してもらはねばならん」
「主命とあれば黙止(もだし)がたい。御念までもなく助太刀いたすが、して、貴君(あなた)にはどんな用意があるのか」
「実はすでに——東の方(かた)は峴山(ケンザン)の道を、蔡和(サイクワ)の手勢五千餘騎で塞がせ、南の外門路一帯には、蔡仲(サイチウ)に三千騎をさづけて伏兵とさせてある。なほ、北門には、蔡勲(サイクン)の数千騎が固めて蟻の這(は)ひ出る隙もないやうにしてゐるが……たゞ西の門は、一路檀渓の流れに行き当り、舟でもなければ渡ることは出来ないから、こゝはまづ安心して、〔ざつと〕、以上の通り手配はすべて調(とゝの)つてをる」
「なるほど、必殺の御用意、この中に置かれては、いかな鬼神(おにがみ)でも、遁(のが)れる術(すべ)はござるまい。——けれど、貴君(あなた)は主命をおうけかも知らぬが、此(この)方(ハウ)には直接おいひつけない事(こと)故(ゆゑ)、後日に悔いのないやう、なるべく彼を生け擒(どり)にして荊州へ曳かれたはうがよろしくはあるまいか」
「それは何(いづ)れでもよいが」
「それと、注意すべき人間は、玄徳のそばに始終立つてゐる趙雲といふ大剛な武将。あれが眼を光らしてゐるうちは、迂闊(ウクワツ)に手は下せませぬぞ」
「彼奴(きやつ)が居ては、恐らく手に餘るかも知れぬ。その儀は、自分も思案中だが」
「趙雲を離す策を先にすべきでせう。味方の大将、文聘、王威などに、彼を歓待させて、別席の宴楽へ誘(いざな)ひ、その間に、玄徳も亦(また)、州衙(シウガ)主催の園遊会へ臨む豫定がありますから、その方へ連れ出して討ち取れば、難なく処分ができませう」
蒯越の同意を得、また良策を聞いて、蔡瑁は、事(こと)成就(ジヤウジユ)と歓んで、すぐ手筈にかゝつた。
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次回 → 檀渓を跳ぶ(三)(2025年7月3日(木)18時配信)