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横になると、手枕のまゝ、玄徳はもう大鼾(おほいびき)をかき初めた。寝(ね)涎(よだ)れを垂らして眠つてゐる。
「……?」
劉表は、猜疑に囚はれた眼で、その寝顔を見まもつてゐた。自分の住居の中に、巨大な龍が横(よこた)はつてゐるやうな恐怖をおぼえたのである。
「やはり怖(おそろ)しい人間だ!」
彼もあわてゝ座を立つた。
すると、衝立(ついたて)の陰に佇(たゝず)んでゐた妻の蔡夫人が、ふと寄り添つて囁いた。
「あなた、いまの玄徳のことばを、何とお聞きになりましたか。常には慎んでをりましても、酔へば性根は隠せません。本性を見せたのです。わたしは、恐ろしさに〔ぞく/\〕しました」
「……うゝむ」
劉表は、呻いたきり、黙然と奥の閣へかくれてしまつた。
良人(をつと)の煮えきらない容子に、蔡夫人は焦々(いら/\)しく思つた。だが、良人はもう充分、玄徳に疑ひを抱いてゐることは確かなので、急に兄の蔡瑁を呼んで、
「どうしたものであらう」
と、諮つた。
蔡瑁は自分の胸を叩いて、
「此(この)方(ハウ)にお任せ下さい」
と、あわてゝ退がつた。
夕方までに、彼は極秘裡に一団の兵をとゝのへ、夜の更けるのを待つてゐた。翌日(あした)となれば、玄徳は新野へ帰る豫定である。大事の決行は急を要したが、その客舎を襲撃するには、宵では〔まづ〕い。夜半か、夜明けか、寝込みを襲ふが万全と考へてゐたのである。
——ところが。
日頃から玄徳に好意をもつてゐる幕賓の伊籍がちやうど城下に来てゐて、ふとこの事を耳にはさんだので、
「これは、捨てゝおけない」
と早速、彼の客舎へ贈り物として果物(くだもの)を届け、その中へ密封した一書をかくしておいた。
玄徳はそれを見て愕(おどろ)いた。夜半に蔡瑁の兵がこゝを取囲むであらうとある。彼は、夕方の食事も半ばにして、客舎の裏から脱出した。従者もちり/゛\に後から逃げて彼に追ひついた。
蔡瑁は、そんな事とも知らず、五更の頃を見はからつて、一斉に鉦(かね)を鳴らし鼓(つゞみ)を打ち、こゝへ殺到した。
もちろん、藻(も)抜(ぬけ)の殻(から)。彼は、
「不覚つ」
と、地〔だんだ〕を踏み、追手を蒐(か)けてみたが、獲(う)るところもなかつた。
そこで彼は、一計を案じて、自分の作つた詩を、部下のうちで偽筆の巧みな者に命じ、墨黒々、客舎の壁に書かせておいた。
そして、急遽、
「一大事でござる」
と、城へ行つて、劉表に会ひ、真(まこと)しやかにかう告げた。
「常々、玄徳とその部下の者共が、この荊州を奪はんとし、御城下に参るたび、地形を測り攻口を考究し、不穏な密会あると聞き及びをります為、昨夜、小勢の兵を窺(うかゞ)はせ、様子を捜(さぐ)らせてをりましたところ、早くも事の発覚と見、一詩を壁に書き残したまゝ、風を喰らつて新野へ逃げ失せましてございます。——御当家の御恩もわすれて、寔(まこと)に、言語道断な振(ふる)舞(まひ)で」
劉表はみなまで聞かないうち蒼白になつてゐた。急いで駒を命じ、自身、客舎へ行つて、彼が書きのこして行つたという壁の詩を見つめた。
困(コン)シテ荊襄(ケイジヤウ)ヲ守ル已(スデ)ニ数年
眼前空シク旧山川ニ対ス
蛟龍(コウリウ)豈(アニ)コレ池中ノ物ナランヤ
臥(フ)シテ風雷(フウライ)ヲ聴キ飛ンデ天ニ上ル
「……?」
劉表の鬢髪(ビンパツ)はふるへを見せてゐた。蔡瑁は今こそと、馬をすゝめて、
「兵の用意はできてゐます。いざ新野へ御出陣を」
と、云つたが、劉表はかぶりを振つて、
「詩などは、戯れに作ることもある。もう少し彼の様子を見てからでも……」
と、そのまゝ城中へ戻つてしまつた。
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次回 → 檀渓(だんけい)を跳ぶ(一)(2025年7月1日(火)18時配信)