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主君の夫人たり又自分の妹でもある彼女へ、蔡瑁はこう囁いた。
「御身からそれとなく諫めた方がよからう。此(この)方(ハウ)から申上げれば、表立つて、自然、角(かど)も立つからな」
蔡夫人は頷(うなづ)いた。
その後、良人の劉表と、たゞ二人きりの折、彼女は女性特有な細かい観察と、針をふくむ綿のやうな言葉で、
「すこしは御要心遊ばして下さいませ。貴方(あなた)は貴方御自身のお心で、世間の者もみな潔白だと思つて、すぐ御信用になりますけれど、どうして、玄徳などゝいふ人には、油断も隙(すき)もなりはしません。——あの人は以前(イゼン)沓売(くつうり)だつたといふぢやありませんか。義弟(おとと)の張飛は、ついこの間まで、汝南の古城に籠つて強盗をしてゐたといふし。……何だか、あの人が御城下へ来てから、とても藩中の風儀が悪くなつたやうな気がします。御譜代の家臣たちも、みな胸を傷(いた)めてゐるさうでございますし」
と、有る事ない事、さま/゛\に誹(そし)つた。
それをみな真(ま)にうけるほど、劉表も妻に甘くはないが、何となく玄徳に対して、一抹の不安を持つたことは否めない。
閲兵の為、城外の馬場へ出た日である。劉表は、ふと、玄徳の乗つてゐる駿壮の毛艶とその逞(たくま)しい馬格を見て、
「すばらしい逸足ではないか」
と、嘆賞してやまなかつた。
玄徳は、鞍から降りて、
「そんなにお気に召したものなら、献上いたしませう」
と自ら口輪をとつて進めた。
劉表はよろこんで受けた。すぐ乗換へて城中へ帰つて来ると、門側に立つてゐた蒯越(クワイヱツ)といふ者が、
「おやツ、的盧(テキロ)だ」
と、つぶやいた。
劉表が聞き咎(とが)めて、
「蒯越、何を愕(おどろ)くか」
と、たづねた。蒯越は拝伏して、理由を述べた。
「私の兄は、馬相を観(み)ることの名人でした。ですから自然、馬相に就(つい)て教はつてゐましたが、四本の脚が、みな白いのを四白といひ、これも凶馬とされてゐますが、額(ひたひ)に白点のある的盧は、もつと凶(わる)いといはれています。それを乗用する者に、必ず祟(たゝ)りをなすと古来から忌まれてゐるもので、為に、張虎もこの馬に乗つて討死しました」
「……ふゥむ?」
劉表はいやな顔してそのまゝ内門深く通つてしまつた。
次の日。酒宴の席で、彼は玄徳に杯を与へながら云つた。
「きのふは、心にもない無心をした。あの名馬は、御辺に返さう、城中の厩(うまや)に置かれるよりは、君の如き雄材に、常に愛用されてゐたほうが、馬もきつと本望だらうから」
と、さり気なく、心の負担を返してから、彼は又、
「——時に御辺も、館(クワン)に居ては市街に住み、出ては城中の宴に列し、かう無事退屈の中にをられては、自然、武藝の志も薄らがう。わが河南の襄陽のそばに新野(シンヤ)(河南省・新野)といふ所がある。こゝには武具兵糧も籠(こ)めてあるから、ひとつ一族部下をつれて、新野城に行つてはどうか。あの地方をひとつ守つてくれんか」
もちろん否やはない。玄徳は即座に命を拝して、数日の後、新野へ旅立つた。
劉表は城外まで見送つた。一行は荊州の城下に別れを告げ、やがて数里を来ると、ひとりの高士が彼の馬前に長揖(チヤウイフ)して告げた。
「先頃城内で、蒯越が劉表に説いてゐました。——的盧は凶馬と——乗る人に祟りをなすと。——どうかその御乗馬はお換へください」
何人(ナンピト)か?と見ると、それは劉表の幕賓で、伊籍(イセキ)字(あざな)を機伯(キハク)といふ者だつた。
玄徳は馬を降りて、
「先生、おことばは謝しますが、憂(うれひ)はおやめ下さい。死生命アリ、富貴天ニアリ。何の馬一匹が私の生涯を妨げ得ませう」
と、手を取つて笑ひ、爽(さは)やかに別れを告げて、ふたたび新野の道へ向つた。
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次回 → 食客(三)(2025年6月28日(土)18時配信)