ターミナルページはこちら(外部サービス「note」にリンク)
前回はこちら → 遼西・遼東(三)
***************************************
北方攻略の業はこゝにまづ完成を見た。
次いで、曹操の胸に秘められてゐるものは、いふまでもなく、南方討伐であらう。
が、彼は、冀州城の地がよほど気に入つたとみえて、こゝに逗留してゐること久しかつた。
一年餘の工を積んで、漳河(シヤウガ)の畔(ほと)りに銅雀臺(ドウジヤクダイ)を築いた。その宏大な建物を中心に、楼台高閣を繞(めぐ)らして、一座の閣を玉龍と名づけ、一座の楼を金鳳と称(とな)へ、それらの勾欄(コウラン)から勾欄へ架するに虹のやうに七つの反橋(そりばし)を以(もつ)てした。
「もし老後に、閑を得たら、こゝに住んで詩でも作つてゐたい」
とは、父としての彼が、次男の曹子建(サウシケン)にもらした言葉だつた。
曹操の一面性たる詩心——詩の解る性情——をその血液からうけ継いだ者は、ほかに子も多いが、この次男だけだつた。
で、曹操は、日頃特に、彼を愛してゐたが、自分はやがて都へ還らなければならない身なので、
「よく兄に仕へて、父が北方平定の業を、空しくするなよ」
と訓(をし)へ、兄の曹丕と共に鄴城へとゞめて、約三年に亙(わた)る破壊と建設の一切を完了し、兵雲悠々と許都へひきあげた。
まづ久しぶりに参内して、天子に表を捧げ、朝廟の変りない様をも見、つゞいて大規模な論功行賞を発表した。また郭嘉の子(こ)郭奕(クワクエキ)を取り立てなどして、帰来、宰相としての彼は、陣中以上、政務に繁忙であつた。
× ×
× ×
食客は天下到る処にゐる。
主(あるじ)は好んで客を養ひ、客は卑下なく大家に蟠踞(バンキヨ)して、共に天下を談じ、後日を期するところあらんとする。——さうした風潮は、当時の社会の慣はしで、べつに異とする程な事ではなかつた。
三千の兵、数十の将、二名の兄弟、そのほか妻子(サイシ)眷族(ケンゾク)まで連れてゐても、国を失つて、他国の庇護(ヒゴ)のもとに養はれゝば、これもまた「大なる食客」であつた。
いま荊州にある玄徳は、さうした境遇であつた。けれど、食客もたゞ徒食してはゐない。国も遊ばせてはおかない。
江夏の地に、乱が興つた。張虎(チヤウコ)、陳生(チンセイ)といふ者が、掠奪、暴行から進んで叛乱の火を揚げたのである。
玄徳は、自(みづ)から望んで、その討伐に向つた。そして地方の乱を鎮定し、その戦で、賊将張虎が乗つてゐた一頭の名駿を手に入れて帰つた。
張虎、陳生の首を献じて、
「もうあの地方には、当分、御心配の必要はないでせう」
と、報告をすました。劉表は、彼の功を賞して、甚だしく歓んだが、幾日か過ぎると、又、
「憂(うれひ)の〔たね〕は尽きないものだ」
と、嘆息して、玄徳に諮(はか)つた。
「御辺のやうな雄才が、わが荊州にゐる以上、大安心はしてゐるが、漢中の張魯と、呉の孫権は、いつも頭痛の〔たね〕だ。殊(こと)に南越の境には、のべつ敵の越境沙汰がたえない。この患(わづら)ひを除くには何(ど)うしたものであらう?」
「さあ、人間の住む地には、万全といふものは有り得ないものですが、やゝ安泰をお望みあるなら、私の部下の三名をお用ひあつて、張飛を南越の境に向け、関羽に固子城(コシジヤウ)を守らせて関中に備へさせ、趙雲に兵船を支配させて、三江の守備を厳になされたら如何です。彼等はかならず死守して荊州の寸土も敵に踏ませることではありません」
と、思ふまゝ述べた。
劉表は同意した。玄徳の雄将たちを、自国の為そこまで有効に使へれば——と、その歓びを、大将蔡瑁に語つたところが、
「はゝあ、なるほど」
と、いふ程度で蔡瑁はあまり感服しない顔色だつた。
彼は、劉表の夫人蔡氏の兄である。それかあらぬか、彼はさつそく後閣を訪(おとづ)れて、何か夫人と囁きあつてゐた。もちろおとづん問題は玄徳のことらしい。
***************************************
次回 → 食客(二)(2025年6月27日(金)18時配信)