ターミナルページはこちら(外部サービス「note」にリンク)
前回はこちら → 遼西・遼東(二)
***************************************
逃亡から逃亡へ、今は身のおき所もなく、遼東へ頼つて来た袁煕、袁尚の兄弟に対して、太守公孫康は、
「扶(たす)けたがいゝか、いつそ、殺すべきだらうか」
を、今なほ迷つてゐた。
——といふのは、一族の者から、扶ける必要はないと、異論が出たからである。
「彼らの父袁紹が在世中には、つねにこの遼東を攻略せんと計つてゐたものである。然(しか)し実現に至らぬうち、自分が敗れ去つたのだ。怨みこそあれ恩顧はない」
そして猶(なほ)、かう極言する者もあつた。
「——鳩は、鵲(かさゝぎ)の巣を借りて、いつのまにか鵲を追つて巣を自分の物にしてしまふ。亡父(ちち)の遺志を思ひ出して、袁兄弟も、後には鳩に化けないこともない。むしろこの際、彼らの首を曹操へ送つてやれば、曹操は遼東を攻める口実を失ひ、遼東もこのまゝ安泰なるばかりでなく、翻然、御当家を重んじないわけに行かなくなる」
公孫康は、その儀もつともなり——と決心して、一方人を派して、曹操の動静をうかゞはせ、曹軍の攻め入る様子もないと見極めると、一日(あるひ)、城下にある袁兄弟へ使をやつて、酒宴に迎へた。
袁煕と、袁尚は、
「さてはそろ/\出軍の相談かな?何といつても曹操の脅威をうけてゐる折だから、吾々の協力もなくてはかなふまい」
などゝ談じ合いながら登城してきた。
ところが、一閣の室に通されて見ると、この寒いのに、暖炉の備へもなく、榻(タウ)の上に裀(しとね)も敷いてなかつた。
ふたりは面(つら)を膨(ふく)らせて、
「われわれの席はどこですか」
と、尊大振つた。
公孫康は、大いに笑つて、
「今から汝等二つの首は、万里の遠くへ旅立つのに、何で温き席が要らうや」
と、云ふや否、帳(とばり)の陰を振(ふり)顧(かへ)つて、それつと合図した。
十餘名の力者(リキシヤ)は一斉にをどり出して、二人へ組みつき、左右から脾腹(ひばら)に短剣を加へ、袁煕、袁尚ともども無造作に首にしてしまつた。
易州に陣取つたまゝ、曹軍は依然、動かずにあつたが、夏侯惇、張遼などは、その間、屢々(しば/\)曹操へ諫めてゐた。
「もし、遼東へ攻め進むお心がないならば、はやく都へ御凱旋あつては如何です。為すこともなく、こんなに所に滞陣してゐるのは無意味でせう」
すると曹操は、
「決して無為に過してゐるわけではない。今に遼東から、袁煕、袁尚の首を送つて来るであらうから、それを待つてゐるのだ」
と、答へた。
諸将は、彼の心事を怪しみ、また嘲笑を禁じ得なかつた。ところが半日ほどすると、太守公孫康の使者は、こゝに到着し、書を添へて、匣(はこ)に容れた塩漬の首二顆を正式に献じた。
さきに嘲けり笑つてゐた諸人は驚いた。曹操は限りなく笑ひ興じて、
「郭嘉の計(はかりごと)に違はず、故人の遺書の通りになつた。彼も地下で満足したらう」
と、種明しをして聞かせた。
それに依ると、郭嘉は、遺書のうちに、「遼東ハ兵ヲ用ヒズシテ攻ムベシ。動カザレバ即チ、坐シテ袁二子ノ首級(シユキユウ)自(オノヅ)カラ到ラン」と極力、進攻を戒めてゐた。
つまり彼は、遼東の君臣が、袁家の圧力に対して、多年伝統的に、反感や宿怨こそ持つてゐるが、何の恩顧も好意も寄せてゐないことを、疾(と)くに洞察(どうさつ)してゐたからである。
かういふ先見の明もありながら、こゝ易州の軍旅のうちに病死した郭嘉は、年まだ三十八歳であつた。
さて曹操は、遼東の使者を厚くねぎらひ、公孫康へ報ゆるに襄平侯(ジヨウヘイコウ)左将軍の印を以てした。そして郭嘉の遺髪を手厚く都へ送り、やがて自身も、全軍を領して、冀州まで帰つた。
***************************************
次回 → 食客(一)(2025年6月26日(木)18時配信)