ターミナルページはこちら(外部サービス「note」にリンク)
前回はこちら → 遼西・遼東(一)
***************************************
柳城の西、白狼山(ハクラウザン)を陥し、曹操はこれに立つて、敵を俯瞰した。そして云ふには、
「夥(おびたゞ)しい夷族(えびす)の勢備ではある。けれど悲しいかな、夷族はやはり夷族。あの配陣はまるで兵法を知らないものゝ児戯だ。一戦に蹴破つてよろしい」
すなはち張遼を先鋒に、于禁、許褚、徐晃などを、三面から三手に分け、城外の敵を一塁々々踏み破り、ついに夷将(イシヤウ)冒頓(バウトン)(ママ)を討ち取つて、七日のうちに柳城を占領してしまつた。
袁煕と袁尚は、こゝに潜んで督戦してゐたが、またも拠るところを失つたので、わづか数千の兵をつれて遼東のほうへ逃げ足早く落ちて行つた。
そのほかの夷兵(イヘイ)は全部、降参して出た。曹操は、田疇の功を賞して、柳亭侯(レウテイコウ)に封(ホウ)じたが、田疇はどうしても受けない。
「それがしは以前、袁紹に仕へて、なほ生きてゐる身なのに、旧主の遺子を追ふ戦陣の道案内に立つて、爵祿(シヤクロク)を頂戴するなど、義において忍びません」
と云ふのである。
「苦衷。もつともな事だ」
曹操は思ひやつて、代りに議郎の職を命じ、また柳城の守りをいひつけた。
律令正しい彼の軍隊と、文化的な装備やまた施政は、著しく辺土の民を徳化した。近郡の夷族は続続と、貢物(コウモツ)をもたらして、柳城市に群れをなし、みな曹操に恭順を示した。
なかには駿馬一万匹を献納した豪族もある。曹操の軍力はかくて大いに富強された。けれど彼は、日々、易州(エキシウ)に残して来た愛臣郭嘉の病態を思ふことを忘れなかつた。
「……どうも捗々(はか/゛\)しくなく、九分までは、むづかしさうです」
易州の便りでそれを知つた彼の秘書は憂はしげに告げた。曹操は急に、
「こゝは田疇にまかせて還らう」
と、云ひ出した。
すでに冬にかかつてゐた。車騎大兵の行路は、困難を極めた。時には二百餘里のあひだ一滴の水もなくて、地下三十丈を掘つて求めなければならなかつたし、青い物は一草もないので、馬を斃(たふ)して喰ひ、病人は続出する有様だつた。
漸く、易州に回(かへ)り着いて、曹操はまづ何を第一に為したかといふと、先に、夷境への遠征を諫言した大将たちに、
「よく、善言を云つてくれた」
と、恩賞を頒(わ)け与へたのである。そしてなほ云ふには、
「幸(さいはひ)に、勝つ事を得、身も無事に還つて来たが、これはまつたく奇蹟か天佑といふほかはない。獲る所は少(すくな)く、危険は実に甚(はなはだ)しかつた。この後、予に短所があれば、舌に衣(きぬ)を着せず、万(よろづ)、諫めてもらひたい」
次に彼は、郭嘉の病床を見舞つた。郭嘉は彼の無事なすがたを見ると、安心したか、その日に息をひきとつた。
「予の覇業は、まだ中道にあるのに、折角、こゝまで艱苦(カンク)を共にして来た若い郭嘉に先立たれてしまつた。彼は諸将の中でも、一番年下なのに」
と、彼は骨肉のひとりを失つたやうに、涙をながして悲しんだ。喨々(レウ/\)、哀々、陣葬の角笛や鉦(かね)は、三日に亙(わた)つて、冬空の雲を哭(な)かしめてゐた。
祭が終ると、郭嘉の病床に始終仕へてゐた一僕が、そつと、一封の書面を、曹操に呈した。
「これは、亡くなられた御主人の御遺言でした。死期を知ると、御主人はみづから筆をとつて認(したゝ)め、自分が死んだら、あとで御主君に渡してくれよ、こゝに書いたやうになされば、遼東の地は、自然に平定するであらうと仰つしやいました」
曹操は、遺書を額(ひたひ)に拝した。
数日の後には、早くも、諸将のあひだに、
「遼東をどうするか?」——が、紛々と私議論争されてゐた。
袁煕、袁尚の二名は、その後、遼東へ奔つて、太守(タイシユ)公孫康(コウソンカウ)の勢力をたのみ、又(また)復(また)、禍(わざはひ)の兆(きざし)が見えたからである。
「捨てゝおいても大事ない。やがて近いうちに、公孫康から、袁兄弟の首を送つて来るだらう」
曹操は今度に限つて、ひどく落付きこんでゐた。
***************************************
次回 → 遼西・遼東(三)(2025年6月25日(水)18時配信)