吉川英治『三国志（新聞連載版）』（542）遼西・遼東（一）
昭和16年（1941）6月24日（火）付掲載（6月23日（月）配達）
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いまや曹操の勢ひは旭日（キヨクジツ）の如きものがあつた。
北は、北狄とよぶ蒙古（モウコ）に境し、東は、夷狄（イテキ）と称する熱河（ネツカ）の山東方面に隣するまで——旧袁紹治下の全土を完全に把握してしまつた。彼らしい新味ある施政と威令とは、沈澱（チンデン）久しかつた旧態を一掃して、文化産業の社会面まで、その相貌はまつたく革（あらたま）つて来た。
しかも、曹操は、まだ、
「——これで可（い）い」
と、しなかつた。
彼の胸中は、大地の広大のごとく、果（はて）が知れなかつた。
「いま、袁煕、袁尚の兄弟は、遼西の烏丸（ウグワン）（熱河地方）にをるといふ。この際、放棄しておいては、後日の禍（わざはひ）にならう。遼西、遼東の地を併（あは）せ定めておかなければ、冀北、冀東の地も永久に治（をさま）るまい」
彼の壮図の下に、ふたゝび大軍備が命ぜられたが、もとよりこれには、曹洪以下、だいぶ異論も多かつた。
こゝはすでに遠征の地である。遠征からまた遠征へ、さう果（はて）なき制覇に邁進してゐる間に、遠い都に変が起つたら何（ど）うするか。また荊州の劉表、玄徳などが、留守を窺つて、虚を衝いたら何（ど）うするか。
実に当然な憂であつた。
——が、ひとり郭嘉（かくか）は、曹操の大志を支持して、
「冒険には違ひないが、千里の遠征も、制覇の大事も、さう二度三度は繰（くり）返されません。すでに都を去つてこゝ迄（まで）来たものを千里（センリ）征（ゆ）くも、二千里征くも大差はない。ことに、袁紹の遺子を流浪させておけば、連年、どこかで叛乱を起すにちがひありません」
議事は決した。
遼西、遼東は、夷狄の地とされてゐる。曽（かつ）て体験のない外征であつた。為に、軍の装備や糧食の計には万全が尽された。戦車、兵粮車だけでも数千輛という大輜重隊（ダイシチヤウタイ）が編制された。
そのほか、純戦闘隊数十万、騎馬あり徒歩（かち）あり、輿（ヨ）あり、また弩弓隊（ドキウタイ）あり軽弓隊あり、鉄槍隊あり、工具ばかり担つてゆく労兵隊などまで実に物々しいばかりな大行軍であつた。
廬龍寨（ロリウサイ）（河北省劉家営）まで進んだ。
すでに夷（イ）境（さかひ）へ近づくと、山川の気色も一変し、毎日狂風が吹き荒れて——いはゆる黄沙（クワウサ）漠々（バク／＼）の天地が蟻のやうなこの大行軍の蜿蜒（エンエン）をつゝんだ。
そして易州（イシウ）（ママ）まで来ると、曹操にとつて、不慮の心配事ができた。それは彼を扶けて常に励ましてきた郭嘉が、風土病にかかつて、輿（こし）にも乗つてゐるに耐へなくなつたことである。
郭嘉は、大熱を怺（こら）へながら、なほ曹操に献策してゐた。
「どうも、行程が捗（はか）どらないやうです。かくては、千里の遠征に、功は遂げても、年月を費やしませう。また敵の備へも固（かたま）りませう。——如（し）かじあなたは、軽騎の精猛のみを率ゐ、道の速度を三倍して、夷狄の不意を衝（つ）きなさい。その餘の軍勢は、不肖がお預りして病を養ひながら、お待ちしてをります」
曹操は彼の言を容れて、初めの大軍を改編し、雷挺隊（ライテイタイ）と称する騎馬と車ばかりの大部隊をひいて、遮二無二、遼西の境へ侵入した。
道の案内には、もと袁紹の部下だつた田疇（デンチウ）といふ者が立つた。
泥河あり、湖沼あり、断崖あり——あらゆる難路が横たはつてゐるので、もし田疇がゐなかつたら、地理の不案内だけでも、曹軍は立往生したかも知れなかつた。
かくて、ようやく夷狄の大将（タイシヤウ）冒頓（ボクトツ）の柳城（リウジヤウ）（熱河省）へ接近した。
時、建安の十七年（ママ）、秋七月だつた。
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