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楽進、李典の二手に、降将の張燕を加へて、新(あらた)に十万騎の大隊が編制されると、
「幷州へ入つて、高幹に止めを刺せ」
と、曹操はそれに命令を下した。
そして自身はなほ幽州へ進攻して、袁煕、袁尚のふたりを誅伐すべく準備に怠りなかつたが、その間にまづ袁譚の首を、城の北門に梟(か)けて、
「これを見て歎く者があれば、その三族を罰すであらう」
と、郡県に普(あまね)く布(ふ)令(れ)た。
ところが或る日、布冠(ぬのかんむり)をいただいて、黒い喪服を着た一処士が番の兵に捕まつて、府堂へ引つ立てられて来た。
「丞相のお布令にもかゝはらず、こやつは袁譚の首を拝し、獄門の下で慟哭(どうこく)してをりました」
と、いふのである。
人品の常ならぬのを見て、曹操は自身で糺(たゞ)した。
「汝はどこの何者か」
「北海(ホクカイ)営陵(エイリヨウ)(山東省濰県)の産(うま)れ王修(ワウシウ)、字(あざな)を叔治(シユクチ)といふ者です」
「郡県の高札を見てゐないのか」
「眼は病んでをりません」
「然(しか)らば、自身のみならず、罪三族に及ぶことも承知だらうな」
「歓びを歓び、悲しみを悲しむ、これ人間の自然で、何(ど)うにもなりません」
「汝の前身、何してゐたか」
「青州の別駕(ベツガ)を務め、故袁紹の大恩をうけた者です」
「わが前で口を憚(はゞか)らぬ奴。小気味のいゝ云ひ方だ。しかしその大恩をうけた袁紹となぜ離れてゐたか」
「諫言をすゝめて、主君に容れられず、政務に忠ならんとして、朋人に讒(ザン)せられ、職を退いて、野に流れ住むこと三年になるが、何とて、故主の恩を忘れ得ませうや。いま国亡んで、嫡子の御首を市に見、哭(な)くまいとしても、哭かずにはゐられません。——もしこの上、あの首(かうべ)を私に賜はり、篤(あつ)く葬ることをお許し下さるなら、身の一命はおろか、三族を罪せられようとも、お恨みは仕(つかまつ)りません」
王修は憚る色なくさう云つた。
どんなに怒るかと思ひのほか、曹操は堂中の諸士を顧みて、嘆(タン)久しうした。
「この河北には、何(ど)うして、かくも忠義な士が多いのか。思ふに袁紹は、かういふ真人を用ひず、可惜(あたら)、野へ追ひやつて、つひに国を失つてしまつたのだ」
即ち、彼は王修の乞ひを許し、その上、司金中郎将(シキンチウラウシヤウ)に封(ホウ)じて、上賓の礼を与へた。
幽州(冀東)の方面では、早くも、曹軍の襲来を伝へて、大混乱を起してゐた。
所詮、かなはぬ敵と怖れて、袁尚は逸(いち)早く、遼西(レウセイ)(熱河地方)へさして逃げのび、州の別駕、韓珩(カンコウ)一族は、城を開いて、曹操に降つた。
曹操は、降を容れ、韓珩を鎮北将軍に任じて、さらに、幷州方面の戦況を案じ、みづから大兵を率ゐて、楽進、李典などの加勢に赴いた。
袁紹の甥高幹は、幷州の壺関(コクワン)(河北省境)を死守して、なほ陥ちずにあつた。
すると、わづか数十騎を連れた二人の大将が、城門まぢか迄(まで)来て、
「高君、高君。開け給へ」
と、救ひを呼んでゐた。
高幹が櫓から見下すと、旧友の呂曠と呂翔だつた。
ふたりが大声で云ふには、
「一度は故主に反(そむ)いて、曹操に降つたが、やはり降人あつかひされて、ろくな待遇はしてくれない。〔もと〕木に勝る〔うら〕木なしだ。今後は協力して曹操に当らん。旧誼を思ひ出し給へ」
高幹は、なほ疑つて、兵は門外にとゞめ、二人だけを城中に迎へ入れた。
「曹操はたつたいま幽州から着いたばかりだ。今夜、討つて出ればまだ陣容もとゝのはず遠路の疲れもある。きつと勝てる」
浅慮にも、高幹は、二人の策に乗つてしまつた。堅城壺関も、その夜つひに陥落し、高幹は命からがら北狄(ホクテキ)の境をこえて、胡(えびす)の左賢王(サケンワウ)を頼つて行つたが、途中、家来の者に刺し殺されてしまつた。
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次回 → 遼西・遼東(一)(2025年6月23日(月)18時配信)
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