ターミナルページはこちら(外部サービス「note」にリンク)
前回はこちら → 野に真人あり(二)
***************************************
荊州へ頼(よ)らうとしたが、劉表から態(テイ)よく拒否された袁譚は、ぜひなく南皮(ナンピ)(河北省・南皮)へ落ちて行つた。
建安十年の正月。曹操の大軍は氷河雪原を越えて、こゝに迫つた。
南皮城の八門をとざし、壁上に弩弓(ドキウ)を植ゑ並べ、濠には逆茂木(さかもぎ)を結つて、城兵の守りは頗(すこぶ)る堅かつたが、襲(よ)せては返し、襲せては返し、昼夜、新手を変へて猛攻する曹軍の根気よさに、袁譚は夜も眠られず、心身ともに疲れてしまつた。
その上、大将(タイシヤウ)彭安(ホウアン)が討たれたので、辛評(シンヒヤウ)を使として、降伏を申し出た。
曹操は、降使へ云つた。
「其(その)方(ハウ)は、早くから予に仕へてをる辛毘の弟(ママ)ではないか。予の陣中に留まつて、兄(ママ)と共に勲(いさほ)しを立て、将来、大いに家名を揚げたら何(ど)うだ」
「古語に曰(い)ふ。——主(シユ)貴(タツト)ケレバ臣栄エ、主憂フル時ハ臣辱カシメラルト。兄(ママ)には兄(ママ)の主君あり、私には私の主君がありますから」
辛評は空しく帰つた。降をゆるすとも許さぬとも、曹操はそれに触れないのだ。云ふ迄(まで)もなく、曹操はすでに冀州を奪(と)つたので、袁譚を生かしておくことは好まないのである。
「和議は望めません。所詮、決戦のほかございますまい」
有(あり)の儘(まゝ)を、辛評が告げると、袁譚は彼の使に不満を示して、
「あゝさうか。そちの兄(ママ)は、すでに曹操の身内だからな。その弟(ママ)を講和の使にやつたのはわしの過(あやま)りだつたよ」
と、〔ひがみ〕ツぽく云つた。
「こは、心外なおことばを!」
一声、気を激して、恨めしげに叫ぶと、辛評は、地に仆れて昏絶したまゝ、息が絶えてしまつた。
袁譚はひどく後侮して、郭図に善後策を諮つた。郭図は強気で、
「何の、彭安が討たれても、なほ名を惜(をし)む大将は数名ゐます。それと南皮の百姓をすべて徴兵し、死にもの狂ひとなつて、防ぎ戦へば、敵は極寒の天地に曝(さら)されてゐる遠征の窮兵、勝てぬといふ事があるものですか」
と、励まして、大決戦の用意にかゝつた。
突如、城の全兵力は、四方を開いて攻勢に出て来た。雪に埋(うづ)もれた曹軍の陣所を猛襲したのである。そして民家を焼き、柵門を焼き立て、あらゆる手段で、曹軍を搔きみだした。
飛雪を浴びて、駆けちがふ万騎の蹄(ひづめ)、弩弓のうなり、鉄箭(テツセン)のさけび、戞々(カツ/\)と鳴る戟(ほこ)、鏘々(シヤウ/\)火を降らしあふ剣また剣、槍は砕け、旗は裂け、人畜一つ喚(をめ)きの中に、屍(かばね)は山をなし、血は雪を割つて河となした。
一時、曹軍はまつたく潰乱(クワイラン)に墜ちたが、曹洪、楽進などがよく戦つて喰ひ止め、つひに大勢をもり返して、城兵をひた押しに濠際まで追ひつめた。
曹洪は、雑兵には目もくれず、乱軍を疾駆して、ひたすら袁譚の姿をさがしてゐたが、たうとう目的の一騎を見つけ、名乗りかけて、馬上のまゝ、重ね打ちに斬り下げた。
「袁譚の首を挙げたぞ。曹洪、袁譚の首を打つたり」
といふ声が、飈々(ヘウ/\)、吹雪のやうに駆けめぐると、城兵はわつと戦意を失つて、城門の橋を逃げ争つて駆けこんだ。
その中に、郭図の姿があつた。曹軍の楽進は、
「あれをこそ!」
と、目をつけ、近々、追ひかけて呼びとめたが、雪崩(なだ)れ打つ敵味方の兵に遮られて寄りつけないので、腰の鉄弓を解いて、やにはに一矢を番(つが)へ、人波の上からぴゆつと弦(つる)を切つた。
矢は、郭図の首すじを貫き、鞍の上からもんどり打つて、五体は、濠の中へ落ち込んで行つた。楽進は首を取つて、槍先にかざし、
「郭図(クワクト)亡(な)し、袁譚亡し、城兵共、何を〔あて〕に戦ふか」
と、声かぎりに叫んだ。
南皮一城もこゝに滅ぶと、やがて附近にある黒山(コクザン)の強盗(ゴウタウ)張燕(チヤウエン)だとか、冀州の旧臣の焦触(セウシヨク)、張南(チヤウナン)などといふ輩(やから)も、それ/゛\五千、一万と手下を連れて、続々、降伏を誓ひに出て来る者が、毎日ひきもきらぬ程だつた。
***************************************
次回 → 野に真人あり(四)(2025年6月21日(土)18時配信)